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- アフリカで得た学びを日本の地方に生かす 海外ボランティア経験がハードルを越える力に
田中千里
日本語版編集:北松克朗
(2025年、長野県小海町高原美術館に展示されたKuru Art(クルアート)とともに写真撮影をする圓山佐登子さん/ 写真:鈴木一史)
シリーズ:アフリカの課題と可能性
2025
年8月に開催される第9回アフリカ開発会議(TICAD9)に先立ち、現在のアフリカが抱える様々な課題とその解決への動きを伝えるスト
ーリーをシリーズでお届けします。アフリカ各地で支援に活躍する人々、彼らの幅広い活動や今後の可能性に光を当てるとともに、JICAが行っている協力についてもご紹介します。今回は、コミュニティー開発に焦点を当てる。
国際企業や政府機関で10年以上働いた後、圓山佐登子さんは都会での生活を離れ、長野県の小さな町で暮らし始めた。
ただ自然を求めていただけではない。彼女が最も愛する「現場での仕事」──人々と話し、耳を傾け、共に手を動かし、ゼロから課題を解決する──をもう一度やりたかったのだ。
「実例を示す」が人々の心をつかむ
その情熱の原点は、10年以上前にさかのぼる。JICA海外協力隊の一員としてボツワナに派遣され、狩猟採集民族であるサン族のコミュニティで活動したことが始まりだった。
今年はJICA海外協力隊の開始から60周年にあたる。1965年以来、延べ5万7,000人以上の日本人が99か国に派遣されてきた。圓山さんのように、多くの帰国者は日本に戻ってもその経験を生かしている。
コミュニティ開発隊員として派遣された圓山さんは、政府が進めた移住計画によってカラハリ砂漠を離れることになったサン族の女性たちに対し、収入を得るための支援に取り組んだ。
しかし、長年狩猟を基盤とした生活を送ってきた女性たちの多くは、圓山さんが企画した手工芸と販売のワークショップにほとんど関心を示さなかった。時間通りに参加する人はわずかで、まったく姿を見せない人も少なくなかった。彼女たちにとって、「お金を稼ぐ」という、他の多くの人々にとっては当たり前の営みが、決して自然なことではなかったのである。
そこで圓山さんは気持ちを切り替え、全員を平等に取り込もうとせず、少しでも興味を示してくれた数人に焦点を当てることにした。すると少しずつ変化が現れた。ある女性が自分で作った工芸品の販売に成功すると、他の人たちも自分の収入を得ることに興味を示し始めたのだ。
「言葉で伝えても全く響かなかった。それがどんなに合理的で正しく聞こえても。実際に良い実例を見せることこそ、人を惹きつけるのだと学んだ」と彼女は振り返る。
(2014年、ボツワナで現地の同僚たちと写真に映る圓山さん/ 撮影:長山悦子)
圓山さんにとっての最も大きな学びは、現地の人々の視点を本当に理解し、彼らに寄り添うことだった。効率が悪く無意味に見えることでも、彼らにとっては大きな意味や安心につながることがあるのだ。
例えば、研修生の中には突然何も言わずに、故郷のカラハリ砂漠に帰ってしまう人たちがいた。彼らは、電気も水道もない砂漠で、ただ家族と一緒に過ごす時間を大切にしていた。
「これによって私たちは作業を中断しなければならないこともあったが、結局、このプロジェクトの目的は、効率性ではなくて、彼らの生活と幸福を向上させることなのだと理解した」と彼女は語る。
アフリカでの繋がりを日本の農村に還元
現在、圓山さんは、長野県小海町の地域おこし協力隊として、同じアプローチを約190人の外国人技能実習生に向けている。人口4,200人程の町で5%近くを占めるにも関わらず、普段彼らは町にはほとんど姿を見せない。地元住民の中には彼らとどう接すればいいのか戸惑っている人もいる。
圓山さんはまず彼らのニーズを把握するために、今年4月から調査を行っている。日本語を学びたいのか? 長く滞在したいのか? 税金や医療、日常生活でどんな支援を必要としているのか?彼らが使っている連絡ツールは何か?
「彼らの生活は、家と職場の往復だけで地元からは見えない。まずはニーズを理解することが必要」と彼女は言う。
さらに圓山さんは、アフリカで築いた繋がりを日本の農村に還元する取り組みを実践している。
今年の冬、彼女はサン族が描いたKuru Art(クルアート)と呼ばれる版画の展覧会を小海町の美術館で企画している。Kuru Art は、ヨーロッパでは評価されているが、日本ではまだ認知度が高くないという。
彼女は町での活動を通して、Kuru Artと、日本の障害のあるアーティストの作品との共通点を見いだした。それは、どちらも美術の専門教育を受けたわけではないが、自らの情熱や感情を芸術を通して表現し続けているということだ。
展覧会では、ボツワナの子供達が日本の障害者アーティストの作品を選び、逆に日本側も気に入ったサン人の作品を選ぶという文化交流を予定している。この交流は、現在ボツワナに派遣されているボランティアメンバーの協力により実現する。
「粘り強くやれば必ずうまくいく」
現在、金沢市で職員として働く宮本敬介さんも同じプログラムでケニアに派遣された経験を持ち、その中で成功体験の大切さを学んだと語る。
彼が活動したキリフィでは、子どもたちが毎日最大4時間を薪集めに費やしていた。そこで彼は薪の使用量を大幅に減らせる新しい形のかまどを導入するよう提案するが、当初は誰も取り合わなかった。しかし、宮本さんが少ない薪でかまどの調理ができることを実演して見せると、村人たちは次々にこのかまどを取り入れはじめた。最終的に子どもたちの薪拾いの負担は半減した。
「ケニアでは問題が次々に起きた。分析し、修正し、また挑戦する─。プランAがだめならプランB、それもだめならプランCと繰り返した。粘り強くやれば必ずうまくいく。その姿勢は今も市役所職員として課題に向き合う自分を支えている」と宮本さんは語る。
(2013年10月 ケニアのキリフィ県キリフィの子供達と一緒に写真に映る宮本啓介さん/ 写真:JICA)
宮本さんがアフリカから帰国したとき、彼が持ち帰ったのは思い出だけではなかった。常に新しいことに挑戦するというマインドセットを身につけ、市役所という「前例主義」に支配されがちな場所で、伝統にとらわれない取り組みを推し進めている。
「市役所は良い悪いは別にして、とにかく前例がものを言う。周りがどうしているか、過去にどうやってきたかを分析して、それをなぞることが多かった。でもケニアから帰ってきてからは、『前はこうだったから』とは一切考えず、とにかくイノベーション、新しいことをどう実現できるかだけを考えるようになった。それが自分が市役所にいる意味だと思っている」と語る。
その一例が、石川県で30年間以上続く交換留学プログラムだ。これまでは留学生がホストファミリーに滞在するだけだったが、宮本さんは地元大学生と留学生がSDGsや世界の課題について語り合う対話の場を企画。ホストファミリーもそこに参加することで、真剣な議論と相互理解が生まれ、プログラムの目玉として人気を集めた。
さらに、町のクラシック音楽祭をより多くの人に届けるために、コンサートホールではなくサッカー場や高齢者施設での開催を提案。会場ごとの観客に合わせた選曲を行うことで、多様な層の人々にクラシック音楽を楽しんでもらう仕組みをつくった。
日本の多くの若者にボランティア経験を
もちろん、このような姿勢は職場で摩擦を生むこともある。しかし宮本さんはその挑戦にこそやりがいを感じている。「変化が難しい場所で新しいことを始める。そこに自分の存在意義を感じる」と彼は言う。その創造性とリスクを恐れない精神の源は、アフリカで培った挑戦の経験にある。
宮本さんは現在、石川県の青年海外協力隊OB会の会長を務め、交流会を開いたり、新たに選ばれた隊員を指導したりしている。彼にとってOB会は、生涯の友人を得た大切なコミュニティであり、国際的な視点を日本社会に持ち込むためのプラットフォームでもある。
今、海外に出たがらない若者が増える中、彼はより多くの若者に海外でのボランティアを経験してほしいと願っている。
「アフリカで失敗し、挑戦を乗り越える中で、人間として大きく成長した。その経験は一生ものだと思っている」と宮本さんは語った。
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