パプアニューギニアにとっての日本(Sylvester ROKUMANさん - 第2回)~JICA長期研修員へのインタビュー~

【写真】Sylvester ROKUMANさんJICA長期研修員(大学院留学生)・名古屋工業大学大学院工学研究科 所属(研修コース名:SDGsグローバルリーダーコース2019)・パプアニューギニア国 出身
Sylvester ROKUMANさん

今回はJICA研修員として、名古屋工業大学大学院工学研究科に留学しているSylvester ROKUMAN(シル)さんに4回シリーズでお話を伺います。 (聞き手:JICA中部 研修業務課)

日本に留学しようと思ったきっかけを教えてくださいますか?

2017年、横浜の山下公園にて

1999年、私がコミュニティスクールの6年生だった時のことです。まだ12歳だった私に、父が日本へ留学するようにと、応募書類をくれたのが始まりでした。その留学コースは、理系から文系まで、すべての分野が網羅されたものでした。私はこどもだったので、当時はあまり真剣にはとらえていなかったのですが、長年父は、お前は日本で教育を受けるべきだと言い張っていました。

第二次世界大戦時、父の両親(つまり、私の祖父母)はまだこどもでしたが、日本の軍人たちが、私たちの地域を占領し、基地を構えました。そのため、今日に至るまで、日本人の存在はずっと大きな影響をパプアニューギニア(PNG)に残しています。また、日本軍は私たちに初めてお米を教えてくれた人たちでもありましたし、私たち世代にとっては、日本人はヒーローです。

2006年にパプアニューギニア工科大学を卒業しましたが、当時のオリエンテーションで、(パプアニューギニア人の)指導教授から、アジア太平洋地域では、日本が最高峰の土木技術者を輩出していることを教えられました。若い学部生でしたし、そもそも周りは皆日本人びいきの地域出身でしたし、指導教授のこのような話には、本当に刺激を受けました。

2013年に土木工学を修めて大学を卒業し、運輸省で働くようになってからは、JICAパプアニューギニア事務所を通じて、日本政府とのジョイントプロジェクトに関わるようになりました。このプロジェクトのおかげで、一般財団法人国際臨海開発研究センター(OCDI)に所属する日本の専門家チームとも、一緒に働くことができました。日本の人たちと親しいつながりを持ったのは、これが初めてでした。この関わりのおかげで、正式に自身の実務経験においても、日本人専門家たちから、大いに影響を受けました。日本から影響を受けた家族を持つ私にとって、日本の専門家との関わりは、個人的にも特別な出逢いでした。父のように、私も日本人の生き方やライフスタイルへの憧れを強くしていきました。現場で専門家らとのやり取りをするにつれ、自身の海岸・海洋工学への興味・関心も次第に強くなっていきました。

2019年、韓国釜山湾出の視察にて

2017年の11月に、JICAプロジェクトが終わりを迎えた後も、私は、PNGの4カ所の湾岸開発の実行可能性調査を行っていた、日本の専門家から学んで身に着けたスキルを活用しつつ、地元のプロジェクトに関わっていましたが、その後、2018~2019年にかけて、それらのプロジェクトが採択されたのです。そして、(我々運輸省としても本プロジェクトを推進していく立場にあるため)、日本で修士号を取得できるというJICA奨学金の話が出たときに、JICAパプアニューギニア事務所より職場に連絡があり、上司が私を推薦してくれたため、私はこのJICA長期研修員プログラム(SDGsグローバルリーダーコース2019)への応募に至り、今の私がいるのです。

というわけで、質問に対する答えを短くまとめると、日本に留学するということは、私にとって人生をかけた願いでした。これを実現させることは、私だけでなく、PNGの人々、特に両親の夢でもあったのです。(夢が叶って)私の父は現在、一番幸せな人だと思いますよ。このようなチャンスが自分に与えられたのは、日本のすべての皆様のおかげなので、本当に感謝をしています。帰国したときには、国にいる人々に話すことは本当にたくさんあることでしょう。

シルさんは以前、ご自身が小さい頃、おじいさま・おばあさまが、日本の歌を歌ってくれたと教えてくださいましたよね。それについてもう少し教えてもらえますか?

ラエ共同墓地にて友人らと(PNG)。(シルさんは右から2人目)

残念ながら、祖父母は私が5歳になる前に他界してしまったので、実際に歌ってくれた曲は、覚えていないですし、その歌を教えてもらう時間もなかったのですが、私の祖母を知る者は皆、口をそろえて、祖母は日本語がとても上手だったと教えてくれました。

私自身は、PNGの東セピック州の州都、ウェワクの海岸からすぐの「マスチュー」と呼ばれる島(ニューギニア島の北岸に位置するウェワクからは、約12kmのところ)の出身です。第二次世界大戦時には、この島全体は日本軍が支配権を握っていました。実は、島は戦争捕虜の収容所として使われていたのです。沿岸部には、戦争や補給船の積み降ろしに使用するための飛行場や軍事施設、学校や埠頭などを建設しました。私の祖父母は当時子どもで、戦時下で捕らえられもしましたが、やがて日本の学校に通うようになりました。

地元の少女とともに。地元の戦争記念施設にある日本軍機関銃の横にて。(PNG)

この世代の人たちは、ほとんど他界してはいますが、今もなお、当時の経験を話せる人も、一握りいます。現在でも私の村には、多くの戦争当時の遺物があり、観光名所にもなっています。当時の不発弾も依然残っており、最近では2016年に地表に埋まっていた不発弾を、誤って掘り返してしまい、爆発したという事故もありました。

とは言うものの、私の地域では日常の中に、戦争の痕跡が根付いていることもあり、地元の人々にとっては、今もなお、日本人とのつながりがあると感じているのです。そのため、過去の歴史の一部として、地元の集まりや家族が集まるところでは、率直に会話の中に、いつも上がってきます。実際、2014年には、安倍晋三元首相が昭恵夫人と、私の地元の戦争記念施設を訪れたのですが、盛大に迎えられ、日本人との関係史に、歴史的かつ伝統的な軌跡を残していきました。

私の祖母は、日本の教育を受け、影響を受けた多くの人たちの中の一人にしかすぎませんが、日本は、私を含むこどもたちの世代にまで、影響を及ぼしています。(次回に続く)

※次回は、シルさんの研究内容や日本のPNGへの開発援助について伺います。お楽しみに!