JICA開発大学院連携を語る

JICA開発大学院連携は、日本の近代化や発展の経験を開発課題の解決にいかせるような開発途上国の未来のリーダーの育成を目的に開始しました。開発途上国に有用な日本の近代化・発展の経験とは何で、それをどう伝えられるか、2019年8月、オックスフォード大学のニッサン現代日本研究所の苅谷剛彦教授(社会学)と、JICAの北岡理事長(対談当時)が語り合いました。

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写真左:苅谷教授、右:北岡理事長(対談当時)

海外で日本を研究し、世界に貢献する

苅谷 最初に留学したのは1980年代の前半で、その後1990年頃まで夏にはアメリカの大学院で教えたり、研究をしたりしていました。当時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代で、アメリカでは、中等教育卒業者の失業率が高く、労働力の質が低いから日本に負けているという議論があり、こうした問題に日本の研究から貢献をすることに関心がありました。また、日本の事例を文化論ではなく、社会学的に論じることがどこまで通用するか試したいとの思いもありました。その後、日本に帰ってきて20年近く経ち、再び海外の大学で教育や研究に携わることはないだろうと諦めかけていた頃に、オックスフォード大学の教授職の話があり、ラストチャンスと思って受けることにしました。

日本のことを研究して、それがどう世界の学問に貢献できるのかという問題意識を、相当早くから強く持っていました。1980年代後半は世界の中で日本が注目されていた時代でしたし、教育が日本の成功の原因の一つではないかという見方がありましたから、日本の教育研究を紹介すると世界から注目されました。しかし、日本への関心も時代とともにすっかり変わりました。今では、学生や研究者が最初に日本に関心を持つのは、漫画とアニメ、あるいは小説です。ポップカルチャーの影響は大きいですね。アメリカの大学はそちらにシフトしてきていますが、私のいる修士課程のプログラムでは意図的にそれを授業の中心には置かず、いまだに日本の歴史、経済、政治、文化、社会を中心に教えています。最終的にはこれらの手堅いテーマで論文を書いて卒業していく学生のほうが圧倒的に多いです。

北岡 私の専門分野は日本の政治外交史の研究ですから、アメリカに行って何をするかは少々ジレンマがありました。日本研究者として行くと、大事にしてくれますが、アウトプットだけで得るものは少なくなりますから、アメリカの外交も研究することにしました。たまたま同じような関心の仲間がいて、一緒にアメリカの東アジア外交についてのワークショップをホストしました。そこで痛感したのは、外交の目的が日本とアメリカでこれほど違うのか、意思決定の仕組みがこれほど違うのかということです。その延長上に、いかに日本の政治外交の仕組みをわかってないアメリカの学者が多いかと痛感しました。

全体的な私の関心としては、日本がだんだん行き詰まってきている。個々のいい要素はたくさんありますが、どうしてこれが総合的な力にならないのか。教育もいろいろな改革があるたびに悪くなっている感じがします。一番典型的なのは過度な専門化です。1970年代ぐらいから法学部でも早くから専門のことを教え始めるようになりました。それは愚の骨頂です。アメリカの大学ではリベラルアーツ・カレッジが本命で、それが済んでからプロフェッショナル・スクールにいきます。アメリカの方が仕組みは健全です。何か日本の教育政策は次々と間違っているような気がします。留学生を増やそうというときに、日本語による試験の仕組みは変えないで、ただ留学生数だけ増やすから、来たのは主に中国、韓国、台湾だけでした。

日本の近代化と教育

苅谷 その前史は多少あるにしても、日本の近代化は明治維新から概ね始まります。近代化ほぼイコール西洋化でしたから、西洋の知識を効率的に日本に制度として根づかせる必要がありました。当然、外国語能力が必要ですから、最初は徹底して外国語のできる選りすぐりの人材を選抜して海外に送り出す。そしてその人たちが学んできたことをもとに日本語化する。これが一つのルートで、もう一つは、いろいろな分野の海外の優れた教師を呼んで、その分野の「いいとこ取り」をするわけです。日本で教える際には、国内にいる人たちにとっても外国語が必要になります。しかし、日本がほかの途上国の場合と比べて圧倒的に違うのは、日本語化するスピードがものすごく早かったということです。多分、近代教育ができてから20年ぐらいで、世界の最先端の一歩手前ぐらいまでは日本語で読めるようになりました。さきほど言った海外へ派遣された人たちが日本に帰ってくるというのは、要するに知識のローカル化を引き起こすわけで、これによって海外の知識へのアクセスが急速に広がります。これが旧植民地で宗主国にエリートだけを送り出していた多くの途上国との決定的な違いです。

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また、もう一つ重要なのは、相当早い時期に明治政府が義務教育を整備したことです。これもやはりほかの途上国の経験と比べてまれに見る成功例です。中央政府だけではできないため、地方政府をうまく使いながら、明治維新から20年ぐらいすると、曲がりなりにも小学校の就学率が8割を超えます。義務教育の裾野を広げると、これは戦前は男子だけですが中等教育にも進みたい人が増えるので、中学校が普及します。政府にはお金がないので、これも地方に作らせています。そうやって、優秀な人たちを全国津々浦々から集めるための器を、まず国家レベルで大きくしました。これが植民地だった国ですと、本当にごく限られた豊かな家庭出身の人たちだけが教育を受けて上に行くという仕組みにとどまります。これと比べると、やはり日本のボトムと中間層の厚みは、恐らく20世紀初頭にはヨーロッパを抜いています。

ものすごいスピードで教育が普及する。それは知識のローカル化によって可能になっているわけです。これによって明治政府は何をしたかというと、富国強兵です。飛躍しますが、結局それが1945年の敗戦と結びついてしまうのは、戦前のある種のエリート主義の失敗でもありましたが。戦後アメリカ型の民主主義で六三三制の学校制度にして、いわば戦前の否定の上に新しい教育システムを作りました。ところが、完全に否定しきれなくて、高等教育の仕組みなどが残ってしまいます。ここが、新たにゼロから近代化を遂げようとする国に比べると大きく違うところです。私は、明治から1945年までを「1回目のキャッチアップ」、1945年以降を「2回目のキャッチアップ」と呼んでいますが、その2回目のキャッチアップのときには、1回目のキャッチアップが常に比較の基準(参照点)になります。つまり、1回目のキャッチアップをどう見るかが常に問われ、反省をする基点になるのです。戦後の2回目のキャッチアップの際には、今度は富国強兵の「強兵」はできませんから、「富国」を追求するわけです。

1960年代から1970年代の高度成長期に人材を供給したのも恐らくは戦前のエリートに加えて、戦後の民主化された教育システムで育成された人たちです。この人たちが、特に1970年代の技術革新、いわば模倣的な技術から日本独自の技術開発に移る転換点の中で現場を支えました。特に製造業の現場の労働力の質が大変高く、その労働者の輩出母体となる教育機関が1960年代半ばに中卒から高卒に切り替わったことによって、独自の技術開発ができるようになりました。特にカイゼン・改良の面では、現場から次々とアイデアが出てトヨタのカンバン方式のようなものになっていきます。それが可能だったのは、やはり戦後の、特に中等教育の改革があったからです。

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近著『追いついた近代 消えた近代-戦後日本の自己像と教育』(岩波書店)でも紹介しましたが、1970年代終わりから1980年代にかけての大平政策研究会や中曽根臨時行政調査会などで、欧米に追いついたという意識をはっきり示しています。そして、もう日本は西洋近代に追いついたのだから、これからは自分たちでやらなければいけないと言って、自分たちで模索するあたりから色々と日本の混乱が起きてくるのです。先ほど北岡理事長がおっしゃった日本の教育政策の混乱の出発点はその辺にあるのかもしれません。1回目のキャッチアップが明治時代から1945年までで、ある部分が大変成功してある部分が大失敗した。戦後は新憲法下で、今度は経済、それから平和国家、民主主義に向けて新しい国家を作ろうと取り組み、教育が人材育成に役立って、それが1980年代にもう一度転換を迎える。こういう大きな流れだと思いますね。

北岡 先日、北海道の利尻島に行きました。利尻島は小さな島ですが、最初に小学校ができたのは明治19年だそうです。初代内閣ができた次の年に小学校ができたのには驚きました。「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」(明治5年学制序文)が本当に徹底していたのです。そのために膨大なお金を投資し、村で入会地を提供、あるいは木を切って立派な学校を作ったのです。教育は大事だという意識がやはり江戸時代からあったからだと思います。この意識はなかなか急に途上国に持っていけないわけです。

もう一つ注目したいのは、子どもの頃に、漢学、儒学、国学を学んだ人が洋学に接して、一種のシナジー効果というか、知的レベルが爆発的に伸びたと思います。日本人が英語で書いて世界で読まれた本は今までに三つしかないといわれています。内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、岡倉天心(1863-1913)です。3人は1861-1863年の間に生まれています。これは洋学をはじめ色々なものとぶつかった結果ではないか、伝統的な学問も抽象的な思考能力を鍛えるという意味ではとても効果があったのではないかと思います。そういう違ったものと接触して、スパークが起こるということが明治にあったのだと考えます。明治後期には、日本の科学技術レベルの上昇も相当なものだったと思います。

苅谷先生が言われたとおり、戦後は色々なものの発明はミドルレベルの技術者が支えました。これは大変面白く、日本は中堅幹部あるいは下級幹部がよくできるといわれています。戦前はエリートがよくできたというのもありましたが、戦後はミドルレベル。中間層については、私は多くの途上国を歩いて、一番足りないものだと思います。途上国には、立派な学校を出て、優れたリーダーはいます。しかし、これをサポートして実行する大量の官僚が方々で足りません。

もう一点、学問に対する接し方で、新渡戸稲造は当時非常に流行っていたハーバート・スペンサーをよく読んでいました。アメリカの大学の入試面接でスペンサーのことを聞かれた際に、「スペンサーはこう言っている」と得意になって答えたところ、先生に、「あなたはそれをどう思うか聞いているのだ」と言われて、自分の意見も言わなくてはならないのだと思ったそうです。今の途上国では言われたことをそのまま丸暗記ということも多いですよね。日本は、こうしたいくつもの失敗を乗り越えて、成功してきたのだと思っています。

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日本はなぜ短期間で成長を遂げられたのか

苅谷 日本の歴史の中で、漢学として中国から学んだ時代は相当長いですよね。和魂洋才の前の和魂漢才というのでしょう。中世のラテン語、つまり、使われていない死んだ言葉を近代ヨーロッパが継承して学ぶのと同様で、エッセンスにあったのは、知識そのものよりも、ある種の知的能力を研ぎ澄ます上での知的な訓練だったと思います。その伝統が日本に残っていたのは強いですよね。

それから、やはり明治期の国家の独立が危うくなる緊張感は大変強かったと思います。かなり早い時期に西洋文明の力を思い知らされ、実際に薩摩も長州も戦争して列強には勝てないことがわかるわけです。国際関係の中で国内的な知のレベルをどうするかという緊迫感や緊張感は、戦後1945年以降も幕末とは違う意味ですが、大変似ていて、それは幕末から明治期にかけてと同様に強かったと思います。しかしながら、1980年代以降は、欧米に追いついたという意識からこうした緊張感はなくなった。しかし、その緊張感の欠如が今の日本の混迷の一つの要因というだけではなく、今の日本は既に成熟しています。明治の初期の頃と1945年の頃の再出発のときの絶望的な状態と比べたら、もうこれだけのものを持っているわけですから、むしろもっているものをいかに生かすかという発想をしたほうがいいのだろうと思います。

北岡 日本の明治時代の教育の普及には、江戸時代の教育の存在が重要な役割を果たしました。江戸の初めには字の書けない武士がたくさんいました。しかし江戸時代には、戦乱がなくなったことで武士は基本的に役人になりましたから、字を書く必要が生じ、やがて町人にも識字が普及しました。それは平和だからできたわけです。一方で、平和の結果、軍事力は著しく落ち、その結果独立も危うくなりました。あることが全ていいということはなく、必ずメリット、デメリットがあるわけですよね。そこから頑張ったのですけどね。

福沢諭吉が『西洋事情』(1866-1870)を記していますが、単に西洋のこと紹介したものではなく、その洞察力は見事ですよ。福沢がアメリカに行って最初に聞いたことの一つは「ジョージ・ワシントンの子孫はどこにいるのか」です。ジョージ・ワシントンは日本で例えるなら徳川家康で、その子孫は当然ながら将軍です。しかしアメリカでは、「どこかにいるだろう」という返事が返ってきて、それで日米で社会の仕組みがどれだけ違うかを見抜いてしまいます。和魂洋才といっても、基本的な体制を維持して技術だけ持ってくればいいのではないと福沢などが気づいて政治体制自体を変えていったのは素晴らしかったと思います。

その後なぜ間違ったかというと、基本的に軍の教育は非常に偏狭な教育でしたし、何かおごりがありました。日露戦争時は世界の比較で言うと日本は軍事技術では、世界でも一流でした。なけなしの金でうんと借金して一流の武器を集めました。そのあとの第一次大戦でヨーロッパの先進国は必死で戦って軍事技術のレベルが上がりましたが、日本は傍観者ですからここで三流になり、それを取り返す努力はしなかったわけです。結局、日本は常に自分たちが生きているシステムを自己点検しなかったのが良くなかった。やはり明治憲法の弱点は、天皇は絶対であるという思想ですが、そんなことはあり得ないですからね。それから、天皇と軍の関係をどうするか、この二つに弱点があったわけです。

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日本の経験は「苦肉の策」 でもそれが途上国の役に立つ

苅谷 日本の経験は、戦前に小学校教育を普及させたときも、戦後の義務教育制度を作るときもそうですが、要するに苦し紛れなのですね。イギリスのように先に産業が発達して、そのあとで学校を作るというような、つまり、十分に豊かな国になって近代教育があとからくるのではなく、同時に、というよりむしろ教育を先行させて、近代社会を作らなければいけなかったわけですから、資源、リソースの点では常に決定的に不足していました。それをどうしたかというと、小学校の例でお話しましたが、地方の財政にかなり負担をかけながらやった。早い時期から、日本政府は、小学校レベルで教育の質、つまり都市と地方の格差を是正するために、どうやって正教員を雇う仕組みを作るかを考えます。財政の問題ですから大変悩ましいですが、戦前、義務教育の教員給与を国が負担する仕組みを作ります。これは相当先進的です。アメリカでは、州政府と連邦政府の役割が日本とは全然違いますが、州政府レベルであっても教育は地方の問題だから、それぞれの学校区ごとに財政事情が変わるのですね。不動産の価格が根拠になる地方税と関係しますので、お金持ちが住んでいるところは教育財政がよくなり、いい学校が作られて、いい教師が雇えるという良い循環になります。逆に見れば、貧しいところは放っておかれます。教育財政の再配分の仕組みはなかなかできません。ところが日本は貧しかったから、逆にそうせざるを得なくて、教育費の国庫負担金制度を作ります。戦前に最初の制度ができますが、戦争でほとんど機能しないまま終わってしまいます。戦後は一度その仕組みをシャープ勧告でやめるのですが、昭和28年に復活します。そのときにどうやってうまくお金が回る仕組みを作るかを考えたのですね。建物も大事ですが、一番重要なのはやはり教員の給料なわけで、教員の給料の半分を国が負担することによって教員の質の地域間格差をなくすようにします。

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もう一つ素晴らしかったのは、これは1960年代から1970年代にかけてですが、僻地の学校に優れた教員を回す仕組みを作ります。どういうことかというと、いくら正教員を雇っても僻地の学校に行きたい優秀な教員が少ないと、僻地教育はやはりなかなかうまく回りません。ですから、例えば校長や教頭になる前には必ず僻地で何年か勤めなさいとか、僻地手当をつけるなど、さまざまなインセンティブも作って、経験豊富な先生たちがきちんと地方の学校に回るような仕組みを作ります。リソースの分配の仕方をどうやると全体として質が高まるか、その仕組みを、1950年代にスタートして、1960年代の半ばぐらいから後半ぐらいに完成させます。都道府県ごとの財政力と全国学力テストの相関を取ったことがありますが、1960年代は正相関です。貧しいところは点数が低くて、豊かなところは点数が高いという関係がありました。格差を是正する仕組みが定着、機能してくると、1970年代ぐらいから貧しいところでも学力が高くなります。貧しいほど高いとまでは言えませんが。貧しいところほど財政に占める一人当たりの教育費は高くなりますから、地域的な平等を達成することによって、個人間の平等も間接的に達成するという仕組みです。日本の、特に戦後の仕組みでは、個人の能力の差を表に出して扱う個人主義的な平等へのアプローチは嫌われた。ですから、個人主義ではないアプローチで平等を達成しようという仕組みをつくったのですね。

また、50人以上も生徒のいるクラスで子どもたちをうまくグループごとに分けて学ばせるという一斉授業方式も日本の教員は大変うまく発達させました。これも実は苦肉の策です。欧米のように一クラス当たりの生徒が二、三十人であれば必要ありません。それができないから、一斉授業やグループ学習の技能を発達させて、しかも授業研究を通じてお互いにその経験をシェアする。そういう仕組みを作ったところは全部、資源の配分の問題と関係するのですね。ただ、最初からそれを理想だと思ってやったわけではなく、資源がない中の苦肉の策です。途上国の多くは日本の過去の経験と同じように資源がないところでやらざるを得ないため、これらのアイデアは使えるのではないかと思いますね。

北岡 資源がない中で日本が発明したものといえば、明治の中期までは、優秀な貧しい子は小学校を卒業したらしばしば代用教員になっています。さらにつけ加えれば、師範学校ではよい先生を育成するのにお金をかけていました。また、鉄道や郵便、軍の学校など実業系の学校に貧しい家庭の子が行き、教育で昇進していける仕組みがあったのが大きいです。教育は受けたが仕事がない、これが一番社会を不安定にします。だから、勉強した結果が仕事に結びつくのがとても大事ではないかと思います。職業教育や訓練分野の協力は、ODAを通じて日本が力を入れているものですが、相手国からの評価が割合いいものの一つです。

もう一つは、非階級的な教育です。元々教育は、西洋では金持ちが自分の家に家庭教師を呼んでやっていたものです。一方で、明治時代の日本では子どもは金持ちも貧乏人でも同じところに行き同じ教育を受ける。私の考えでは、武士や禅の文化から出てきたのではないかと思いますが、この非階級的な教育は、日本がある程度誇りにして、海外に紹介してよいものの一つではないかと思います。

苅谷 日本の強みは中間層だったという話を先ほどしましたが、戦後の日本で、その中間層をもっとも吸収したのは製造業でした。今では製造業の雇用者比率は20%を切っています。雇用がサービス業などの第3次産業に移行したことによって、仕事に必要なスキルと学校で学んだことが一致しなくなり、両者の関係が曖昧になったと思います。いわゆる非正規雇用がサービス産業を中心に拡大し、そこではスキルアップしない仕事が多かったので給与もアップしない。そして代替可能性が高いので非正規で十分となって、正規雇用との格差が拡大する。これは世界中で起きており、教育だけでは解決しない問題です。どう雇用を確保するかがやはりこれからの課題ですね。1980年代までの日本がうまくいったのは、製造業の雇用吸収力がとても強かったことと、一応すべての若者が正社員になって会社員化したこと。欧米の文化と比べて、特に日本的経営でよく言われていることですが、会社員化で日本はホワイトカラーとブルーカラーの身分格差をなくすことに成功し、高卒の労働力をうまく吸収しました。製造業が基幹産業ではなくなったときに、雇用吸収力をどこに求めるかは難しい問題です。さらに今度は教育と仕事で必要なスキルの結びつきが難しくなってきて、AIだ、ロボットだといって、コンピューターのプログラミングを教えればみんな給料をもらえたり職に就けるかというと、それも難しいです。これは先進国が共通して抱える問題です。

北岡 日本は、IT時代以前は割合よく社会が完成していました。IT化というのはたし算やかけ算どころではなく、何乗にもなる変化や結果を生みます。それだけ大きなゲインを得るためには、他方で大きなリスクを取って、投資する必要があり、最終的にトータルでペイするという社会の在り方になります。それと中産階級中心の社会はなかなかなじみませんから、結局、日本はIT化にうまく乗っていくことができなかったのだと思います。ただ、ずっとこのまま格差社会でいくのかというと、人間の価値はつまるところ大体同じですから、やはりどこかでブレーキがかかるような気がしますね。それを解く方法はあまり思いつかないですが。それでも日本はもっとIT化を進める方向に変えなくてはいけないですね。ただ、すべての国が同様にIT化した社会に脱皮するのかは疑問です。IT分野では雇用吸収能力があまりありません。恐らく、人口が増加している国では、雇用吸収能力のある産業がないと困ると思います。ですから、途上国はものづくりをしばらくやるのがいいのではないかと思います。

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またもう一つ指摘しておきたいのは、最近、日本でも優秀な新卒採用者に何千万円の給料を出す会社も出ていますが、みんながそちらになびくかというと、高い給料よりも何かよいことのために自分の人生を使いたい人が増えてくるような気がします。ですから、一直線にIT格差の方向になるとは限らない。国家の一つの在り方として日本がバブルの頃までずっとやってきた道は、途上国にとって参考にはなるだろう、全く捨てたものでもないと思っています。

JICA開発大学院連携への期待-グローバルな視点で日本の経験をとらえ直す-

苅谷 JICAの開発大学院連携構想は、大変魅力的で、ポテンシャルが高いと思います。大学のグローバル化、研究のグローバル化というと、特に人文社会系では、グローバル・ランキングを意識して英語で海外のジャーナルにどれだけ載るかという発想になりがちです。下手をすると、単に日本をデータとして扱って、うまく海外産の理論やモデルを日本に当てはめるというだけになりかねない。一応英語の論文にはなりますが、それなら欧米で勉強したほうがいいとなってしまいます。ここでの問題は、日本での日本を対象にした研究と教育のゴールがうまく一致していないことにあります。JICA開発大学院連携のような構想の下で、研究と教育のゴールをうまく対応させることで、日本を対象に研究をすることの意味が変わってくると思います。おおげさな言い方をしますけれど、成功も失敗も含めた日本の経験をもとに、人類の知に新しい知をつけ加えられるかというのが日本の教育が世界に向けて果たすべき重要な役割であり貢献だと思います。それを研究でも教育でもやっていく。これまで日本人向けに研究をしてきた研究者も、そのような意識で世界に向けた研究をするようになると、その意味付けが変わってくる。日本の経験の持っているポテンシャルももっと生きてくると思います。同じようなデータを使って比較研究をするにしても、それが海外で、特に途上国でどのような意味を持つのかまで一緒に考えないと、日本の経験の持っているポテンシャルは生かせません。このように日本の経験を対象に研究することの新たな価値をふまえた上で、教える狙いを明確にすることが重要です。それによって教育と研究とのより密接な相互作用が生まれるでしょう。授業をたんに外国語で教えればいいというのではないのです。このような相互作用によって、日本の研究自体も国際的にアピールできるものになり、それが蓄積されれば今度はそれを使って、海外から来た人やあるいは海外で日本を研究する人に対しても違う視点での知識を提供できるのではないかと思います。

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今こそ役立つ日本の経験-経験を見つめ直し普遍的なコンセプトで提供できるか-

苅谷 気をつけなければいけないのは、「成功のパラドックス」と言われますが、ある時代の成功経験が足かせになるということがあります。足かせを取り払わない限り次のステップにいけない面はありますが、どの部分が足かせで、どの部分が残さなければいけない成功経験なのかの識別を、厳密に、丹念にやることが重要です。大雑把な議論のままで、全部を変えなければとなると、むしろ途方に暮れてしまいます。しかも、方向性が見えないまま良いいものを壊すと、もっと見えなくなります。もちろん世界中で今、先行きの見通しがつきにくいというのはその通りです。けれども、こういう時にこそ、日本のような経験が役に立つのではないかと思います。日本の近代化の経験はほかの国に比べると見えやすい。なぜなら、西洋の学問を取り入れながらも西洋との対抗軸でやってきましたから。しかも、日本人はまじめで、しかも、ある程度反省をしますから、その反省を含めた経験の記録が残っています。そこには西欧の知識も取り込んだ反省が記録されている。それ自体が文化的なあるいは教育的な日本のリソースだと思うのですよね。そういう経験自体の中で、例えば成功のパラドックスを日本はどうやって捉えてききたか。本当にどうだったのかということを、実態はどうだったのかを踏まえ、もっと経験的・帰納的に考えた方がいいと思います。自分たちの経験自体を、内部の参照点からきちんと捉え直して理解するのが、大雑把な成功のパラドックス論に乗らないために必要だと思います。それを丹念にやった結果を途上国の人々に伝えることが彼らにも意味があるのではないかと思います。

北岡 JICA開発大学院連携構想には色々な目的がありますが、つまるところは我々自身の自己省察だと私も思います。加えて、その結果を日本語のバリアを超えて世界に普遍的なコンセプトで提供することで、より世界に貢献できるのではないかと思っています。

苅谷 日本の経験をそのまま書いても、発信にはなりません。今の時代、中国研究への関心のほうが大きくなっています。ですから、少し露骨な言い方をすれば、日本のことを学ぶとどんないいことがあるかまで解説しながら発信をしないと、本当の発信にはなりません。JICA開発大学院連携構想を通じて自己参照点を見つけて、自分たちとは何だったのかを捉え直すこと。研究と教育の両方にまたがるプログラムはそれができる。この取り組みは、本当にポテンシャルを持っていると思います。

オックスフォード大学ニッサン現代日本研究所
苅谷 剛彦 教授(かりや たけひこ)
東京都生まれ。東京大学教育学部卒、同大学院教育学研究科修士、課程修了、ノースウェスタン大学で博士課程修了(社会学博士)。東京大学教育学部教授を経て、2008年よりオックスフォード大学教授。

国際協力機構
北岡 伸一 特別顧問(前理事長)(きたおか しんいち)

奈良県生まれ。東京大学名誉教授。東大法学部卒、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。日本の特命全権大使として国連代表部次席代表などを歴任し、2015年4月から2022年3月まで当機構の理事長を務められました。