世界と共に生きる(前編)中学~大学時代を通じて培われた海外・国際協力への関心

【写真】野水 祥子(徳島県)昭和63年度2次隊/ガーナ/婦人子供服
野水 祥子(徳島県)

中学・高校時代

JICA海外協力隊員・アメリカ人ボランティアやガ-ナ人の仲間と

 海外、特に開発途上国に私が興味を持ったきっかけは、中学、高校の頃に培った経験でした。1970-80年代は、干ばつによるアフリカの飢餓がクローズアップされ、栄養失調でおなかが膨れた子供たちの映像がテレビで流れていたのを鮮明に覚えています。私自身、これらのことにとても関心がありましたし、また通っていた学校がカトリック系のミッションスクールだったこともあり、その学校の特性(世界平和や奉仕を重んじる精神)から、授業や文化祭などでも、それら世界で起きている問題を取り上げて考える機会が、他の学校に比べ多くあったように思います。
 また当時は、ベトナム戦争後に、ベトナム等からのボートピープルが、日本に難民として逃れてきていた時代でもありました。兵庫県の姫路定住促進センター(1979年〜1996年)では、それら難民の人達が一時滞在して、日本語や日本の生活・習慣を勉強していました。今から思えば、私の出身地である岡山県は、兵庫県の隣県と言うこともあり、研修か何かで岡山にも来ていたのではないかと思います。私が時々行っていたカトリック教会で、数回彼らと会ったことがありますが、簡単な日本語や、身振り手振りで、とりとめもない話をしたこと、そして、高校生ながらに、死を覚悟しながら海を渡ってきた彼らの存在を目の当たりにしたことは、衝撃的な体験でした。さらに高校の時、在日韓国人の友人が、自分の通称名(日本の苗字)をやめ、韓国の本名をカミングアウトしたことも大きな出来事でした。これらの出来事すべてが、戦争や人権を考えさせられる大きな出来事となりました。
 このように、中学・高校の多感な時期での様々な経験が、その後、私が世界や海外・国際協力に関わる「はじめの一歩」になったように思います。

大学時代、そして家庭科教師としての経験

 大学に入り、当時としてはまだ珍しかった海外でのワークキャンプに参加し、行き先として韓国を選びました。また、大学時代には、とにかくいろんな人との出会いや体験を大事にしようと思い、自閉症児のキャンプや、日雇い労働者の町でのボランティア活動などにも積極的に参加していました。
 大学卒業後は、人や教育に携わる仕事がしたいと思い、高校で家庭科の教師として勤務しました。そこでは、様々な問題行動を起こす生徒や、生活態度や心がすさんだ生徒、さらには不安定な家庭との出会いが沢山ありました。当時、その学校では、1年間に 約50人の生徒が退学していくような状況があり、自分の社会経験の無さや無力感を多々感じました。しかしながら、そのような生徒達にこそ、いろんな社会や世界、考え方があるということを少しでも知ってもらう機会を提供しようと、若かった私は、授業やホームルームの中で、様々なニュ-スや、心に残った本や言葉等を紹介していました。そんなある日、飢餓に苦しむアフリカのことを紹介し、そのことについて考える授業をしていた時、1人の生徒が「いくら気持ちがあっても、そんなん、金がねえとなんもできんわあ」と言ったのです。その一言に非常にショックを受け、「私は生徒達に綺麗ごとを言っているだけなのか」と自問自答していく中で、高校時代から海外で何か役に立ちたいと思っていた気持ちに再び火がついて、協力隊への参加を考えるようになりました。そして、勤めていた学校を2年間休職し、協力隊に参加しました。

ガーナ共和国に赴任してからの日本の生徒たちとの繋がり

竹の木の下での授業

 赴任したガーナ共和国での2年間は、勤めていた学校の生徒に向けて、私が赴任した村の名前をとった「アラバンヨー通信」というニュースレターを手書きで作成し、郵便事情の悪い中、自分の学校に送っていました。(今のようにEメール等と言う手段がありませんでした) 現地での活動のこと、悪戦苦闘の日々の中で感じたことや考えたことを率直に書くことにより、日本に残してきた生徒たちに何かを伝えられればと思い、一生懸命作成したものです。