世界と共に生きる(中編)ガーナでの協力隊活動とその後

【写真】野水 祥子(徳島県)昭和63年度2次隊/ガーナ共和国/婦人子供服
野水 祥子(徳島県)

協力隊時代の生活

私の家に水を運んでくれる生徒。この量で1週間過ごせるよう大切に使いました。ガ-ナ(アフリカ)では、どんなものでも、また小さな子でも、頭の上に上手に乗せて運びます。

村人たちと!

 私が赴任した西アフリカに位置するガーナ共和国のアラバンヨーという村は、黄熱病の研究で野口英世がなくなった首都アクラから200kmほど離れた小さな村でした。 電気や水道もない村で、夕暮れからはランプの生活、慣れない石油コンロや炭を使って料理をしました。水は雨が降ればバケツや鍋を外に出して雨水を貯めたり、生徒が頭に乗せて運んでくれる水を大切に使い、バケツ1杯で、シャワ-や料理を済ませていました。4日に1度のマーケットデイ(商業市)には、10数km離れた町まで赤茶色のでこぼこ道をオフロード用バイクを使って買い出しに行く等、日本では体験したことのない現地の生活に、まずは慣れるのに悪戦苦闘しました。ただ、村の人達はとても親切で、村を歩けば誰もが私のガーナ名である「Ajoa(ガーナ特有の、誕生日の曜日にちなんだ名前)」と呼んでくれ、同僚や村人が「家で一緒にご飯を食べていって」と再々誘ってくれました。習慣も文化も価値観も、日本とはかけ離れた彼らの生活に、とにかく馴染んで沢山の友達を作ろうという思いで、協力隊生活を過ごしました。

婦人子供服隊員としての協力隊活動について

縫製の練習用に、セメント袋で作った服

配属された学校の教員との写真

先生の家で料理の準備

 配属先の3年制の職業訓練学校には、大工、ブロック、料理、洋裁のコースがあり、私の洋裁の授業は、竹の木の下で行われました。雨季は、スコ-ルの度に、大きな机やミシンなど全てを頭に乗せて倉庫に片付け、どしゃ降りの雨と空を割るような稲妻が過ぎるのをひたすら待つという状況でした。驚いたことは、電気がないので、ミシンは手回しミシン、アイロンはアイロンの形をした鉄の入れ物の中に炭を入れて使用。服を作るための布は値段が高いので、海外から中古で入ってきたシ-ツの布や、何重にもなっているセメント袋の紙を布がわりに使用することもありました。教師間のミーティングは、予定していても、何時間も、あるいは何日もずれるのは当たり前。学期始めの始業式も、授業料が払えない生徒が多いため、10日、20日と延びるのが必然という感じでした。(俗に言うアフリカンタイムでしょうか?)
 また苦労したことは、洋裁を指導する上で、日本人とガーナ人の女性の体型や、製作する洋服のデザインなどが全く違ったので、今まで日本でやってきた私の洋裁の知識や経験の多くが通用しなかったことでした。それに加え、ガーナの公用語は英語ですが、授業以外でのお しゃべりはすべて現地語となり、何をしゃべっているのかわからない私は、1人ぽつんと取り残されたような気になり、「自分は何のためにここにいるんだろう」と自問自答したことも多々ありました。
 しかしながら、つたない英語と、初めての現地語を自分なりに勉強しながら、落ち込んだり紆余曲折していた私を支えてくれたのは、結局同僚や生徒、村の人達でした。その皆さんの優しさのお陰で、気持ちを前向きに切り替え、また 人間関係を築きあげることができていったのです。そして、その関係性の中で、生活面でも仕事面でも自分の居場所を見つけることができ、柔軟な活動の展開へと繋がっていったように思います。「私の知らないガーナのやり方は教わろう、私の知っていることで彼らが知りたい事は何でも伝えよう」と決め、学校では洋裁の他に、レース編みや編み物(寒い雨季に赤ちゃんに着せるセ-タ-や帽子、ソックスなど)、刺繍、マスコット人形などの小物作り、時には料理コースの人たちにクッキー作りなどを教えたりもしました。
 このように、ガ-ナでの2年間は、素晴らしい体験と同時に辛いことや戸惑うことも多くありましたが、「同じ人として通じ合える部分が必ずある」と言うことを心の底から実感することができ、そして「いろんな角度で柔軟にものごとを考えることが大切だ」と体感できました。
 また、協力隊同士は、同じ釜の飯を食う仲間として密の濃い関係性ができ、未だに強い絆で結ばれています。これら全てのことが何よりも大きな財産となり、以後の私の人生に大きな影響を与えてくれたように思います。蛇足ですが、JICA海外協力隊以外のアメリカやカナダ、イギリスなどからのボランティアや、仕事や教会で在住していたレバノン人やスペイン人とも交流ができたことも貴重な経験となりました。

(公財)徳島県国際交流協会(TOPIA)の仕事≪国際交流・協力シニアコーディネーター≫に就いて

徳島県青年海外協力協会(OV会)が開催した上勝町サマーキャンプにて、徳島と、被災地支援の一環として福島・熊本の高校生に向けて「在住外国人との多文化理解」の講義を行う

 帰国後は、赴任前に勤めていた高校に復職しましたが、ガーナで出会った理科教師隊員(野水誠也さん:関連リンク参照)との結婚のため徳島に移り住み、TOPIAには平成5年から勤めています。一時、夫のインドネシア赴任に家族で帯同した2年間を含む数年は職場を離れましたが、また復職の機会を得て、通算20年以上、この仕事に携わっています。
 TOPIAのような地域国際交流協会が、国の方針で全国に設立され始めたのは30数年ほど前です。当時、日本の在留外国人は97万人にすぎませんでしたが、30年の時を経て、今は296 万人と約3倍になりました。ここ徳島県でも、1,000人にも満たなかったのが、今は約80カ国から6,600人弱にまで増えました。当初、全国の国際交流協会は、国際交流や異文化理解に重きを置いてスタ-トしたように思いますが、次第に中長期的に在留する外国人が増加し、多文化共生の醸成に重きを置くように変化してきました。特に、昨年(令和元年)の入管法改正により外国人労働者の受け入れを増やしていく方針が決まり、全国各地の国際交流協会には、彼らが生活する上で抱える問題やトラブルに対応する受け皿となるよう、国の方針で相談窓口のワンストップセンタ-が次々と開所されました。現在は、多様な国からの人や文化を受け入れて、共に円滑に生活していくことのできる社会の実現に向けて支援することが、以前にも増して全国の国際交流協会の重要な使命の一つになってきています。具体的に、TOPIAでは、在住外国人の方々には、各言語で生活相談ができる総合相談窓口の設置や情報提供、日本語教室や防災講座などの生活支援、および弁論大会や阿波踊り交流などの各種イベントを提供し、県民の方々にも多文化理解にかかわる情報やイベントの提供、外国人国際理解支援講師の派遣、ボランティアの登録・育成などをしています。(TOPIAホ-ムペ-ジ参照;https://www.topia.ne.jp/) 当協会の業務の柱は、在住外国人や外国人観光客(今は激減していますが)への支援と、県民へのサービスで、お互いがそれぞれの多様性を受け止めながら、徳島で生活しやすい環境、社会をつくるためのお手伝いをしていくことです。

ガーナでの協力隊活動やインドネシアでの滞在経験をTOPIA業務に生かす

 インドネシアでは、協力隊時代とはまた一味違う経験を沢山しました。特に首都ジャカルタでは、日本を含め、世界中から国際機関に携わる人や、政府関係者、企業で働く人々、インドネシアに結婚や自営業で定住する人、ボランティアの人などが集まっており、エネルギ-溢れるアジアの新興国のパワ-を目の当たりにしました。そして、経済的にしのぎを削り合う世界の中で、それぞれの立場で「頑張る日本人」が、「世界の中での日本」を最前線で支えているとでも言いましょうか・・・・、世界の中で日本の立ち位置を自分なりに実感することができました。
 また、世界最大のイスラム教国であるインドネシアで、生活に根ざした宗教の重要性をあらためて体感しました。日本人には少ないですが、世界中の多くの人が、各々の宗教に根ざして生活していることを体感できたことは、TOPIAでいろんな宗教的背景を持った人と接する上で、また、多文化共生を考える上でとても役に立っています。
 さらに、ガーナとインドネシアで自分自身の培った人間関係から、外国から徳島に来て生活をする人が、沢山の困難を抱えることになったとしても、自分に「きちん」と接してくれる人がいる、居場所がある、ということがわかれば、どうにかその困難を乗り越えていく「原動力」にできるのではないかと思います。もちろん、日本の法や制度の前では、それらは微力に過ぎず、完璧な問題解決に結びつかないこともあり、時にはその場限りの出会いになることもありましたが、できるだけ、自分自身の目の前にいる人には「きちん」とした姿勢(あえて言うなら誠実に、とか一生懸命ということでしょうか)を大切にしながら関わっていきたいと思っています。 また、自分の考えや価値観が全てではないということも、海外生活で味わったことです。多くの外国人の方の、多様な考えや価値観を受け止めることができればと思っています。
 (一時、「イスラム国」・「IS」グル-プが台頭した時、イスラム教とイスラム国・ISとはかけ離れたものだということも、伝えていました)