教育

専門家から国際協力での仕事を目指す方へのメッセージ(國枝専門員)

国際協力の道に入ったきっかけ

小学生の頃に、地域の子ども会活動の一環で、廃品回収の収益で途上国に寄付を送っていたことがあります。そのころから日本と違って生活に困っている地域への関心は漠然とありましたが、仕事にするというのは全く考えていませんでした。直接のきっかけは、大学に入る直前にあった「湾岸戦争」です。当時の日本は、イラクの侵攻を受けたクウェートの解放を目指す多国籍軍に対し多額の資金援助をしていました。ところが、戦争後にクウェート政府がマスメディアに出した感謝の広告に、資金を拠出したはずの日本の名前がなかったのです。人も送らずお金だけという姿勢への評価が背景にあったようですが、僕はすごく疑問に思いました。それ以来、日本は国際社会で人的貢献だってしている、ということを自ら示したいなと思ったことが国際協力への入口です。今思えば、何の専門性もないのに身の程知らずでしたというしかありません・・・。

大学や大学院時代を振り返って

大学では総合政策を専攻していました。国際交渉論のゼミに入って、国際連合(以下、国連)を中心とする多国間システムの中で、環境問題など地球規模の問題解決に取り組むうえで、いかに国際交渉を通じて制度を作り、国と国との関係さらには国を超えた関係を築いていけるかを勉強していました。そのうちに漠然と国連で働きたいという夢を持つようになり、それならまずは英語力と修士号が必要と考え、アメリカに留学して引き続き国際開発を学ぶことに。その間、留学先の単位取得要件の関係でケニアにある日系NGOで3か月間のインターンシップに従事。そのしばらく後、スタッフをやらないか?とそのNGOから声をかけてもらったことから、大学院修了後はそのままケニアに渡航しました。

ケニアのNGOでの試練

ケニア村落部の小学校訪問(NGOスタッフ)

ケニア村落部の小学校訪問(NGOスタッフ)

ケニアのNGOでは、ナイロビ、スラム地域のプロジェクト調整員として、幼稚園や小学校、職業訓練校、診療所など幅広く運営に携わっていました。しかし、就職してからわずか3か月で、「就労許可証が取得できなかった」という理由で解雇されました。アメリカからケニアに送った船便がまだ届いていないし(しかも新婚だし)、さあ、どうしようと(苦笑)。就職せねばといくつか国際NGOの仕事も探ってみたものの、即戦力にならない僕を取ってはくれませんでした。

結局、ケニアでやり残したことを続けたいと、同じNGOで知り合った仲間と一緒に新しくNGOを立ち上げました(CanDo、特定非営利活動法人アフリカ地域開発市民の会)。これが相当大変でした。何もないところからの組織づくりと事業形成を多くの人や団体の協力を得ながらやっていたのですが、なにしろ電話を引くにも半年、NGO登録には1年以上かかる世界です。CanDoの現場はケニアの地方の村落部で、コミュニティ開発を切り口に活動していました。教育や保健、環境保全など、多岐に渡る分野で総合的にコミュニティの開発をサポートするような地域住民の能力強化ですね。僕にとっての、コミュニティ開発のプロとしての原点は、ここにあります。
(※現在CanDoはケニアからマラウイに拠点を移して、活動中)

フランス語を勉強するきっかけは?

エチオピア村落部の住民からの聞き取り(JICA専門家)

エチオピア村落部の住民からの聞き取り(JICA専門家)

第2子の誕生を機に仕事の幅を広げたいと思い、NGOを退職し、縁あってエチオピアでJICAの技術協力プロジェクトに関わることに。担当業務は、小学校のないへき地の村で住民参加による学校建設を推進するモデルの構築でした。前職のNGO経験が活かせる貴重な仕事で充実していましたが、任期を終えて帰国すると、意外にも次の仕事がなかなか見つかりませんでした。もともとアフリカ全域に関心があったので、英語だけではなく、フランス語も身につけなければという気持ちはずっとあったところ、これもまた縁あって、JICA本部の特別嘱託という仕事をいただき、フランス語圏でのプロジェクト参加に備えて準備を進めることになりました。日中はJICAでの仕事について学ぶ一方、業務外の時間でフランス語を勉強し、必要最低限の資格を取れるまで何とか頑張りました。

こうして晴れて、ニジェールにプロジェクト専門家として派遣されましたが、当初は、自分はここで何をしているのだろう、というくらいフランス語での業務に苦労しておりました。配属先の「みんなの学校」プロジェクトでは、学校運営モニタリング担当専門家として、日本人が僕1人、現地コンサルタント3人の4人チームで、ニジェール教育省による学校運営委員会の全国普及の研修や活動モニタリングへの技術支援に取り組んでいました。僕以外はフランス語(や現地語)で仕事していますので、僕もフランス語で参加しない限り仕事にならないのですが、言葉ができない最初は、そんな僕でもできることを積極的に行いました。例えば会議の前後でのプレゼン資料の作成やデータ処理のお手伝いとか、できることから始めていくと周りも見てくれているのですよね。そのうちに、やる気がないのではなくて、何か必死にできることをやろうとしているのは理解してくれて、いつの間にか言葉と一緒に自分のスキルアップにも繋がりました。

ニジェールに続きセネガルでもプロジェクト業務に携わり、7年近く仏語圏アフリカで過ごせたおかげで、今では、アフリカ各国の教育省の人と仕事をする際に、言葉の問題で物怖じする必要はなくなりました(発音や語彙の問題はさておき・・・)。ただ、フランス語は本当に難しいです。今でも通勤時にはポッドキャストの番組を聞いたり、パソコンもフランス語の設定にしたりと、毎日の生活に少しでもフランス語に触れられるよう工夫しています。語学の勉強は大変ですが、やりたいという人には「今からだってできるから、すぐに始めよう」と伝えています。日頃の生活で使えるのが理想ですが、日本で仕事しながら「仕事で使えるレベル」まで持っていくのはなかなか難しい。日々、努力あるのみです。

NGOやJICAで働くことの違いは?

ケニア村落部での調査中、車両通行不能区間に直面(NGOスタッフ)

ケニア村落部での調査中、車両通行不能区間に直面(NGOスタッフ)

NGOとJICAのプロジェクトで働くうえで、いずれも国や地域社会の発展のためという共通の目標を持ちつつも、現場とのかかわり方については違いがあります。NGOはより現場に近い中で緻密に、時に直接的に活動をしますが、JICAでプロジェクト専門家をしていると、基本的に現地の行政組織を通じた活動で、現場が少し遠く感じます。特に「みんなの学校」のように各国、全国規模で展開しているプロジェクトは、1つ1つの学校という単位ではなくて、中央政府や州の役所へのアプローチになるので、学校現場はさらに遠くなります。どうしたら学校が変わるのか、子どもの学びに影響できるのか、想像力を働かせて活動することに難しさを感じますが、現場で何がうまくいって何がうまくいっていないのか、これを適時に把握して柔軟に対応して成果につなげていくというのが大事なことと捉えています。

どういったことを意識してお仕事されていますか?

セネガル教育省の同僚からの誕生祝い(JICA専門家)

セネガル教育省の同僚からの誕生祝い(JICA専門家)

一言でいうと、一緒に仕事している人たちはみんな自分と対等な人たちであること。自分も相手もどっちが上、下なく、対等であることを意識しています。それぞれ立場があって、家族の事情だとか、職場のポジションとか、地域社会での役割とか、得意不得意だってあります。僕が言語の壁にぶつかったときも、パソコンスキルがあったのと同じで、果たせる役割はそれぞれあります。

失敗談になりますが、僕がセネガルで初めてチーフアドバイザーをやったときの任務は、その直前に携わったニジェールでの経験をセネガルで活かし、早期に学校運営改善モデルを構築して全国に普及していくというものでした。最初はセネガルにいながらも、「ニジェールでは~」と、ニジェールの文脈で話すことが多かった僕は、「ここはセネガルだ!」とセネガル人の同僚たちに言われてしまいました。そこで、僕があれこれ言うのではなく、「百聞は一見に如かず」の状況をつくろうと、ニジェールにセネガルのカウンターパートの皆さんを連れてスタディーツアーを企画しました。やはり早期に着実な成果を、と焦っていた僕は、現地での活動予定もかなり詰め込んでしまいました。現地で押せ押せのスケジュールの中、まだ知り合って間もないカウンターパートに対し、時に苛立つ気持ちを隠さずに次の訪問先へとせかしてしまったところ、遂に一部のカウンターパートの人が爆発してしまったのです。さすがに僕が悪かったと思い、その日の夜の反省会で、短期間で多くの場所に訪れる機会を設けて貴重な学びの場にしたかったことを説明したうえで、失礼な態度で接したことについて謝罪しました。すると、その日以降途端にカウンターパートとの関係が良くなりました。立場に上も下もないですし、駄目なものは駄目と認めて、人として接するということが大事であることを学びました。

これから「みんなの学校」プロジェクトをどう持っていきたいか?

これまでの縁があり、「みんなの学校」プロジェクトに関わっていますが、まだまだ多くやらなければいけないことはあります。ご存知の通りサハラ砂漠以南のアフリカ地域ではいまだに基礎教育学齢期の子どもの9割近くが、最低限の読み書き、計算能力も身に着けられずにいます。残念ながら数年で解決するような話ではありません。「みんなの学校」は、コミュニティ協働による持続的な学校運営の土台を作って、それを活用して就学促進、学習改善、自主給食、ひいては平和構築など、様々な教育課題を解決していく可能性をもっています。アフリカ各地の学校現場を変えるべく、学校運営の土台の普及はもちろん、介入モデルの深化、進化を通じ、現場のニーズに迅速かつ着実に応えていくことが必要であると思っています。

これからの国際教育協力人材に向けたメッセージ

國枝さんインタビューの様子

國枝さんインタビューの様子

国際協力は、国際協力の仕事をしていないと国際協力に関わっていないのかというとそんなことはなくて、それぞれが世界とのつながりを意識して行動すること自体が国際協力であると思っています。それぞれの「現場」で一生懸命に役割を果たすことが、大事だと思います。小さな例ですが、僕自身がNGOのインターンをしていた頃、はじめは資料のコピーやファイリング等、なぜこんなことをしているのだろうと思った時もありました。ただ、僕の用意した資料がNGOを支援してくださっている協力団体に提出する重要なものであり、小さなことの積み重ねで信頼を勝ち得ていって、その結果支援が得られるようになって、プロジェクト実施に繋がって。こうして想像することで、必ずその時にやっていることは繋がっていきます。是非自分がやりたいことがあったら、まずは自分にできることからやってみてください。

ところで、これまでアフリカでの教育協力に関わる中でアフリカの教育事情については理解が深まってきていますが、足元の日本を見た時に学びの機会が十分に保障されていない子ども達がいる現実があります。実は以前に日本の公立中学校のPTA会長を務めた縁で、今も細々とですが学校運営連絡協議委員という立場で学校を応援しています。様々なニーズを持っている子ども達が日本の学校で最低限の学びを得られるようにしたいと思っています。欲張りですが、アフリカなり、開発途上国に限らず日本でも、多様なニーズを持っている子ども達に質の高い学びを保障できるような活動に引き続き取り組んでいきたいと思っています。

國枝信宏 国際協力専門員

國枝信宏

JICA国際協力専門員(基礎教育)。米国ピッツバーグ大学にて公共国際関係修士課程修了。97~2003年、ケニアでコミュニティ開発NGO及び日本側支援母体の設立・運営に従事。2004年より技術協力プロジェクト専門家としてJICAに参加。2008~15年、ニジェールとセネガルにてJICAのコミュニティ協働型教育開発プロジェクト「みんなの学校」に従事した後、2015年4月よりJICA人間開発部国際協力専門員として引き続き「みんなの学校」に携わる。