専門家から国際協力での仕事を目指す方へのメッセージ(村田専門員)

国際協力の道に入ったきっかけ

青年海外協力隊(JOCV、現JICA海外協力隊)への参加が直接のきっかけです。それまでは途上国にも国際協力にも関心はなく、たとえば、テレビで見ても別次元のような感覚でした。大学(教育学部)卒業後は民間企業に就職し、バブル期の企業戦士としてほぼ休みなしで激務をこなしていました。そのうち三年目ぐらいから体調を崩すようになり、さすがに「自分の人生はこれでいいのか?」と自問するようになりました。そんなある日、電車の中でJOCVの募集広告を目にしたのです。なんとか仕事を抜け出して説明会に参加し、そこで隊員OBの話を聞き、「こんな生き方もあるのか!」と感銘を受けてJOCV受験を決心しました。仕事の合間に時間を作っては受験勉強をし、運よく日本語教師に合格することができました。ちなみに、派遣国としてコスタリカを希望した理由は、当時読んでいた書物にメキシコ初代教育大臣ホセ・バスコンセロスの思想が紹介されていてラテンアメリカに興味を抱いていたこと、仕事以外での苦労が少なそうな国であったこと、の二点です。決して、美人が多い国といわれる「南米の3C(コロンビア、チリ、コスタリカ)」のひとつだからではありませんよ。

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JOCV時代、日本語講座のひとこま(コスタリカ)

コスタリカでは国立コスタリカ大学文学部現代言語学科の日本語コース(初級・中級)と日本大使館後援の一般人向け日本語講座を担当しました。それらの運営はすべて一任されていましたので、それぞれで学習者のニーズ分析、カリキュラム改訂、教科書開発、教材作成、指導案集整備、テスト作成、評価結果分析等を実施しました。日本語教育ではありましたが、今の仕事の基礎になるような経験をしました。すべてひとりで行わなければならなかったため、仕事は本当に大変でしたが、充実した日々を過ごせたと思っています。

一方、当時のコスタリカを取り巻く状況は政治的・社会経済的に非常に緊張したものでした。中米ではニカラグアのサンディニスタ革命(1979~90)、米軍によるパナマ侵攻(1989~90)、エルサルバドル内戦(1980~92)、グアテマラ内戦(1960~96)があり、それらが様々な形で市民生活に影を落としているように感じました。周辺国からの人々の流入、突然の暴動と略奪の発生、人身売買や麻薬取引といった非合法ビジネスなどの話も聞きました。ここに至って国際協力の必要性と重要性を実感し、「自分にできることはないものか?」と考えるようになった次第です。

大学院時代を振り返って

帰国後は名古屋大学大学院国際開発研究科に入学し、国内外の識字教育と先住民の教育問題を研究しました。修士課程を経て博士課程に進学しましたが、諸事情により研究を中断して働かなければならなくなりました。幸運にも短期集中講座の講師として来られていたJICA国際協力専門員の方と話をする機会を得て、自分の経歴や経験、現在の研究内容、そして実務者志望であることをアピールしました。その一週間後、「スペイン語がわかり、教育分野の専門性がある人材を探している。君、大丈夫か?グアテマラに行けるか?」とお声掛けいただきました。家庭の事情ですぐに赴任することはできなかったのですが、相談の結果、ジュニア専門員を受験し、合格したら一年間JICA本部で下積みし、その後で長期専門家として赴任することになりました。

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村田専門員との対談の様子

専門家として経験した活動の内容、その時の課題や克服方法について

ジュニア専門員合格後は、国際協力総合研修所と本部でのOJTを通じてJICA事業のイロハを学びつつ専門性の拡充に努めました。当時基礎教育協力はメジャーではなく、一部に「基礎教育は国家の主権や国体に関わる」として慎重論も根強く存在していました。そうした基礎教育協力の黎明期に様々な実務に携われたことは、非常に貴重な経験でしたし、国際教育協力に関する自分の理念や考え方に大きく影響しています。

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グアテマラ女子教育セミナー受付にて同僚の水野専門家(現国際協力専門員)、USAID教育専門家と

1997年2月、ついに長期専門家としてグアテマラに赴任しました。配属先はグアテマラ教育省で、案件は「日米コモンアジェンダ・グアテマラ女子教育協力」と華々しいタイトルが付けられていました。しかし、プロジェクトの枠組みはなく、長期専門家二名が現地ニーズに応じた技術協力を行いつつ無償資金協力、機材供与、国別研修、JOCVなどの他スキームと連携するという協力でした。そのため、当時の最大の問題は予算が専門家の国内出張経費分(月36,000円)しかないことでした。とにかく専門家二人で手分けして金策に走り回り、UNDPのJapan WID基金と大使館の草の根無償を得て、何とかまともな活動ができるようになりました。パイロット県の現地調査を実施したり、全国の県教育事務所の管理職と技官を集めてワークショップを開催したり、国別研修参加者を公募してテストと面接を通じて選考したりと協力活動が本格化するなか、無償資金協力による小学校建設も始まりました。ここに至って、ようやくグアテマラ国内の教育関係者の間でJICAの教育協力が認知されるようになりました。

予算以外でも悩ましい問題に直面したことがあります。ジェンダーの問題です。ご存じの通りジェンダーは社会的・文化的な性差のことです。グアテマラは先住民人口が多く、固有の文化や慣習が根強く残っています。ある時、教科書に掲載予定の「男の子と女の子が手をつないで山の方に歩いていく」挿絵が問題になりました。ジェンダーの視点からは至極当然のことなのですが、先住民ではタブーとされていました。この挿絵を巡ってUSAIDのジェンダーの専門家と教育省二言語異文化間教育局の技官が激しい議論を繰り返し、結局は挿絵を掲載しないことになったと記憶しています。ここで議論されていた「欧米的な価値観に根差すジェンダーは、国あるいは地域に固有の社会性や文化性をどこまで容認できるのか?」は非常に重要かつ難解なテーマだと思っています。ここではジェンダーの例を示しましたが、価値観の相違に基づく意見の対立は国際教育協力の様々な局面で見られます。私はこうした問題は解決が難しい上、時や場所や状況や人によって最適解が異なると思っていますので、関係者間で議論を尽くした上で事業責任者に決定してもらうようにしています。

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西部地域女子教育ワークショップにて
教育省技官、JOCV隊員と(グアテマラ)

印象に残っている業務

グアテマラ以外にも、長期専門家としてはホンジュラスとエルサルバドルに赴任し、算数・数学教育プロジェクトのチーフアドバイザーとして活動した経験があります。また、これまでアジア・アフリカ・中南米の20ヵ国以上の基礎教育協力に関わってきました。そのため印象に残っている業務はたくさんありますが、ひとつだけ選ぶなら、ちょっと毛色の違う業務、調査研究「日本の教育経験」ですね。有識者を集めて委員会を形成し、途上国の視点から日本の教育開発の歴史を振り返り、途上国への適用を念頭に各テーマに応じた経験を取りまとめるというものでした。私は主査として調査研究の全工程に関わり、一部執筆も担当しました。とても苦労が多く、時間も3~4年かかりましたが、途上国の教育セクター分析の比較対象軸として日本の教育を俯瞰できたことは、自分の専門性の向上はいうまでもなく、国際教育協力の業務にも大いに役立っています。たとえば、途上国では必ず「日本はどうだったのか?どのように課題を克服してきたのか?」という質問を受けます。その際に一定の回答ができれば、相手の好奇心を満たし、興味関心を高め、ひいては信頼を得て交渉や業務を円滑に進めることができます。
この調査研究の結果は報告書「日本の教育経験 -途上国の教育開発を考える-」としてJICAから発行され、ウェブサイトでも公開されました。その後、英語、スペイン語、フランス語に翻訳され、関連のビデオも制作されました。特筆すべきは、反響の大きさから一般書籍として刊行されたことです。時代に左右されない内容になっていますので、興味があればぜひ一度手に取ってみてください。

お仕事の中で意識してきたこと

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調査団訪問先の小学生と(ボリビア)

全ての子どもたちが教育を通じて貧困や差別から身を守る術を学んで欲しいと思っています。もちろん、夢や希望を抱いて、自らの可能性を信じ、未来を自分で切り開いていけるような力を身に着けることが理想ですが、まずは自分の身を守ることが最優先だと考えます。そのために日々奮闘しているわけですが、そのなかで特に意識していることを三点お話しします。

第一は「広い視野でみる」ことです。教育は国家最大の事業であり、他種多様な活動がいたるところで実施されています。その基盤である教育制度は巨大で、それを管理する教育行政は複雑です。教育政策は政権交代ごとに大きく変わり、教育計画も予算などの状況に応じて柔軟に変化するのが常です。そんななか、我々の協力がどこに位置付いていて、どんな課題解決に貢献し、その影響がどこまで波及しそうなのかを把握したり想定したりすることは非常に重要です。ともすると目の前の課題解決に集中しがちで、プロジェクトの枠組みやロジックで物事を判断しがちになりますが、一国の教育を俯瞰することで、立ち位置や方向性を見失うことなく、適時適切な協力を行うことができるようになると考えています。
第二は「現状を正確に把握する」ことです。国際教育協力の現場には非常に多くの制約が存在します。たとえば、専門家はカウンターパート(CP)を選べません。そして、たとえCPの能力が十分でなくとも、容易にプロジェクト目標を下方修正したり、成果を削減したりはできません。所与の条件の中で工夫を凝らして目標と成果を達成するしかないわけです。こうした困難をひとつひとつ認識した上で対策を検討し、戦略を練り直すことが重要だと考えています。また、どの国でも教育現場の生の声が正確に教育省の上層部に伝わることはありません。管理責任を問われかねないので、各行政レベルの管理職が情報を取捨選択するためです。したがって、我々が現場の声に耳を傾け、それをそのまま上層部に伝えることは非常に重要であり、正確な情報に基づく意思決定に貢献できます。
第三は「人はタダでは動かない」ということです。これまでの経験から、そして自分自身を振り返ってみても、何らかのメリットやインセンティブがないと自発的な行動を促すことはできません。JICAのプロジェクトでは、持続性確保の観点から、原則としてCPや関係者に報酬などの経済的インセンティブを与えることができません。そのため、自分の能力向上を実感できる、あるいは他者から高評価を受ける、といった形で職能上のインセンティブを高める工夫を常に考えています。

これからのJICAプロジェクトを実施するにあたって

SDGsのスローガンである「誰一人取り残さない」に強く賛同します。私はこれまでマイノリティの子どもたちを主な対象として、学びの保障に関する協力に数多く携わってきました。女子、先住民、障害児、へき地居住児童などに多く見られる未就学児は「ラスト5~10%」といわれています。そして、各国の教育法規に国家の義務として明示されている「教育機会の保障」が教育開発の最優先課題であるべきだと思っています。教育現場では、これまでのような学級や学校を単位とした協力とは異なり、個々の児童生徒に応じた、きめ細やかなアプローチが必要になるため、相応の時間と手間とコストがかかります。しかし、予算も専門人材も限られている途上国ではこうした子どもたちへの手当てが二の次になることが多く、支援ニーズが非常に高いのが現状です。我々はこのような状況を見過ごすべきではありません。
また、彼らの学びの保障を考えることは、今の教育を見直すことにもつながります。たとえば、「学びのユニバーサルデザイン(UDL)」は、障害のある子どもを含む、全ての子どもがわかりやすく参加できる学び(授業)を指向していて、授業のあり方に一石を投じているのではないでしょうか。

とはいえ、こうした課題に対して我々に明確な処方箋があるわけではありません。途上国に比べれば、日本の経験に基づく知識や技術の蓄積は相当量に上りますが、それらが途上国の教育現場に有効か否かは実際にやってみないとわかりません。その意味では「共に考え、共に歩む」ような協力アプローチが重要になると思っています。
JICAグローバル・アジェンダ(課題別事業戦略) 「教育」の中に、重点的な事業戦略として「誰ひとり取り残さない教育改善クラスター」が設定されています。その今後の展開に期待しつつ関連事業の実現に力を尽くしたいと考えています。

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課題別研修での指導風景(高知大学)

これからの国際教育協力人材に向けたメッセージ

しっかり調べて、じっくり考えて、きっちり覚悟を決めてから、この仕事に取り組むようにしてください。
今は非常に多くの情報が比較的容易に手に入ります。たくさん調べた上で、自分の将来を先の先まで考えて、今後進むべき道を見定めてください。その後、ぶれずに邁進することで、悔いのない充実した日々を過ごすことができるものと思います。
いつかどこかでご一緒できるといいですね。

村田敏雄 国際協力専門員

1987年に東北大学教育学部を卒業後、民間企業(某メーカー)に就職。退職後、1990~92年に青年海外協力隊(日本語教師)としてコスタリカで活動。帰国後に名古屋大学大学院国際開発研究科で国際教育開発・教育協力論を学ぶ。95年にジュニア専門員(教育)となり、国際協力総合研修所とJICA本部で勤務。97~99年にはJICA長期専門家(女子教育)としてグアテマラで活動。2000~03年の国際協力客員専門員(教育)、03年のキャリアプログレス研修員(筑波大学学外共同研究員)、04年の特別嘱託(教育分野課題アドバイザー)を経て、04年より国際協力専門員(教育)として勤務。09~11年はホンジュラスに、21~23年はエルサルバドルに長期専門家として赴任し、算数・数学教育プロジェクトの総括として活動。現在の担当はインクルーシブ教育/特別支援教育、へき地教育、教員養成で、関連案件の発掘形成、技術・運営指導、知識・技能・経験の体系化と発信等に従事。

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