【対談企画】岐阜県で日本酒造り・クラフトビール造りに取り組む元JICA海外協力隊

岐阜県で地ビールづくり、日本酒づくりを行うお二人。実はJICA海外協力隊経験者です!

【画像】【対談者】
◆東 恵理子(あずま えりこ)さん
(株式会社東美濃ビアワークス カマドブリュワリー)
(バングラデシュ/コミュニティ開発/2014年2月〜2016年2月)

【画像】◆杉原 慶樹(すぎはら よしき)さん
(杉原酒造株式会社)
(ミクロネシア連邦/養殖/1998年7月~2001年9月)






JICA海外協力隊の経験を経て、岐阜県で地ビールづくり、日本酒づくりを行っているお二人に協力隊時代の活動から現在に至るまでの経緯、岐阜県の魅力やそれぞれのお酒づくりについて語りあっていただきました。

同じ岐阜県のご出身とのことですが、今回の対談が初対面と伺いました。まずは自己紹介、JICA海外協力隊時代の活動についてお話しいただけますか?

バングラデシュのラジオ局にて

東:出身は岐阜県東濃地方の瑞浪市です。コミュニティ開発隊員としてバングラデシュに派遣されていました。それまでは新卒で3年弱ほど北海道のテレビ局でニュース番組の制作をしており、記者兼ディレクターとして働いていました。
バングラデシュでは、コミュニティラジオ局の番組制作の支援をし、ラジオを通して、「手を洗いましょう」とか「女性の早期結婚はダメですよ」といったメッセージを伝える、啓発番組に携わりました。また札幌のラジオ番組とも協力して、お互いの国の文化を伝えあう、文化交流番組も作っていました。
また健康増進や、心臓病が多いという問題の解決を目的に「バングラデシュの国民的体操プロジェクト」を立ち上げ、日本でいうラジオ体操のような「チョルチョル体操」というものを考案しました。

シャコ貝の養殖指導

杉原:僕は新卒でミクロネシアに行きました。現地では水産庁に配属されシャコ貝養殖指導や、水産資源量調査などを行っており「これは今繁殖期だから採っちゃだめだよ」と現地の人に教えたりしていました。あとはプライベートで、サッカーチームを作って、子供にサッカーを教えていました。

「日本も元気にする青年海外協力隊」でも紹介いただいていますが、JICA海外協力隊での活動後、どのような経緯で岐阜県でのお酒造りやクラフトビール造りに携わられたのか、そのきっかけやターニングポイントについて伺えますか?

かまどブリュワリーの仲間と

東:紆余曲折あるのですが、日本に帰ってから、日本の伝統工芸の美しさを残したいと感じ、映像制作会社に入りました。そこで文化庁のフィルム映画の助監督をさせていただいたのですが、映画を作って、上映して終わりだったので、これで廃れつつある日本の工芸が変わるのか疑問に感じました。
そこでリアルな現場に関わりながらコンテンツを作る仕事がしたいと思い、広告会社に転職をしました。その会社では、全国の地方創生に関わる仕事をさせていただきました。更に1回きりではなく、地方創生を持続可能に回していけるように街づくり会社の立ち上げにも関わりました。そういった経験をする中で、最終的には自分の地元で何かをしたいと考えるようになりました。ちょうどクラフトビールが昔から好きで、色々なところに旅をするときも、その土地土地のビールを飲むのが好きだったんです。岐阜県東濃地方は何もないけれど、美濃焼の文化があるので、クラフトビール×器文化があれば、ここの魅力を再発見できるのではないかと思い、クラフトビールの街づくり会社を2020年4月に立ち上げ、15年ぶりに岐阜に戻りました。私はお酒造りが出来るわけではないので、地元出身のビールのベテラン醸造家と話しを進め、会社を作ることになりました。

日本酒造りの様子①

杉原酒造株式会社

杉原:僕も協力隊から戻った後は、別の会社で水産業の仕事をしていて鹿児島の車海老の養殖施設で働いていました。その時に、お恥ずかしながら実家の酒蔵が倒産寸前になっていました。ミクロネシアはもともと日本の統治国だった関係で、日本語を話せるおじいちゃんなどが多かったのですが、その人たちに「酒蔵をなぜ継がないのか?」と協力隊時代からよく言われていたんですね。実はもともと小さいころから酒蔵の仕事は大嫌いでした。両親の苦労も知っていたので継ぎたくなくて逃げていた面もあるのですが、ミクロネシアに来て、おじいちゃんたちと話して、伝統産業というものがいかに重要なものか、再確認できたというか、もう一度改めて見つめなおす機会をいただきました。それで、潰れるぐらいだったらやってみようということで、ゼロからスタートして、自分でやり方を覚えながら造り始めたのが17年くらい前。私も大学から酒蔵を継ぐまで岐阜にいないので、かなりの期間地元を離れていましたね。

岐阜県の魅力を教えてください。

東:岐阜県は、クラフトマンが結構多く、そこが魅力なんじゃないかなと感じています。モノづくり文化、例えば飛騨の木工や美濃焼の作家さんもたくさんいます。岐阜に戻ってきたときに、石を投げれば陶芸家にあたるというくらい、多くの陶芸家さんがいらっしゃることに気づきました。東京ですと会社員が多く、友達などと話すときは、会社のちょっと疲れた話が多いですが、こっちだともっとクリエイティブな話になるんです。今の会社もビール×器という発想で、クリエイティブに進んでいけているなと感じています。

杉原:穀倉地帯が広がり、自然豊かなところが岐阜県の魅力だと思います。酒蔵も小さいながらもかなりの数がありますので、水もきれいだと思います。

岐阜県と自身の任国との共通点はありますか?

東:昔ながらの文化を大切にするところです。協力隊として活動していたバングラデシュの派遣地は、首都から300キロ、車で8時間ほど離れたところで、住民がその土地の文化をすごく大事にするんですよね。例えば即興で音楽を作る吟遊詩人もいたり、何かあれば住民同士、詩を書いて送り合ったり。岐阜県東濃地域では、地歌舞伎の文化があります。大きな歌舞伎座ではなく、各地に小さな歌舞伎座があり、昔ながらの文化が残っています。

岐阜県でお酒やクラフトビール造りをする上での利点や逆に苦労している点はありますでしょうか?

東:利点は、岐阜県は美濃焼の文化がありますので、そのビアカップを楽しめるということですね。クラフトビールは各地にあり、副原料としてその土地の果物などを使ったものは色々あるのですが、それをすると他と同じになってしまいます。こちらには美濃焼の作家さんがいらっしゃって、オリジナルのカップなどを作っていただいています。そこは全国的に見ても結構オリジナリティはあると感じます。
美濃焼で飲むビールはやはり見栄えが芸術的です。すごくメタリックになっていたり、表面がざらっとしていたり。泡立ちや香りの感じ方も変わってきますね。

日本酒造りの様子②

杉原:僕は沖縄生活が結構長いのですが、沖縄は離島でハーリー祭(船を漕ぎ競い合うことで航海の安全や豊漁を祈願するお祭り)があったり、イベントがあったりすると、その島の泡盛を飲む習慣が根強く残っています。岐阜に帰ってきたとき、その文化がないなと感じました。新潟や岩手の杜氏(とうじ)さんを招へいして酒造りをする酒蔵も多かったですし。でも逆にいろんなものを受け入れやすい土地だとは感じました。利点として考えるならば、日本酒もクラフトビールもいいものなら、岐阜県の人たちはすごくすんなりと受け入れてくれるのではないかと感じています。

東:おっしゃる通りだと思います。まず岐阜県民が意識の中で岐阜県になにもないと思っているところが大きくて。小学校で地図帳を見たときに岐阜県だけ食べ物の特産物が書いていなくて、何もないんだなと思った記憶があります。逆に他にあこがれるというか、他に優れたものが来た時に「いいね」って言えるのかもしれません。

青年海外協力隊の経験はどのように役立っていますか?

NGOのスタッフと芥子菜畑にて

東:まずは協力隊同士のつながりがとても良かったと思っています。協力的な方が多く、クラウドファンディングをした時にはすごく広めてくださったし、醸造場のペンキ塗りを手伝いにも来てくださいました。仲間が頑張っているのを応援する協力隊のつながりは助かりました。

バングラデシュでは難しい状況の中でももがき、自分にできることを見つけていく力がついたと思います。当時テロがあったり政情不安が続いたりしたので、ほとんど外に出られない時期もありました。危ない任地に住んでいる他の協力隊員が早期帰国になったこともありました。私は運よく残ることができたのですが、本当に外に一歩も出られないことが続きました。どうしようと思ったのですが、その状況でもできることを考え、ラジオで伝えたり、新しい体操の考案を進めたりしました。
現在の会社を立ち上げたときはコロナ禍で、大変なこともありましたが、人とのつながりを構築したり、SNSを通じて発信したり、そういったことはバングラデシュでの経験がすごく役立っていると感じています。

杉原さんが描いた絵がラベルに

杉原:もともと積極性のある人間ではなかったんです。表立って前に出ていくタイプではなかったのですが、協力隊に参加して「いろんなことをやってみよう」それで「なにかできるんじゃないか」と考えられるようになり、なんでも挑戦してみようという気持ちがすごく強くなりました。僕はもともと絵描きさんになりたかったんです。美大は全部落ちてしまったんですけども、絵を描き続けようと思うようになり、現在は地元では色々な賞を取っています。昨年はその絵をお酒のラベルにしました。岐阜県にこんな小さな酒蔵があるんだっていうPRに少しでも繋がればいいなと思っています。

東さんは以前記者としてのご経験もあり、これまでのご経験から広報の分野にもお強いと思いますが、岐阜県やそこで造られるクラフトビールやお酒を広めていくためには何が必要だと思いますか?

モザイクをデザインしたラベル

釜焚物語シリーズ「寝落ち」のラベル

かまどブリュワリーのキャラクター

東:今醸造場が全国に500以上あります。さらにどんどん増えているところなのですが、やはり情報の波にのまれてはいけないし差別化をしていかないといけないと思うんです。地元のものをそのまま出すのではなく、少し新しさや遊び心を入れて発信していくことで、ここならではの価値になりますし、情報の渦に巻き込まれない工夫になるのかなと思ってやっています。
「釜焚物語」というシリーズは、かまたきの風景をビールの名前にしています。例えば「寝落ち」というビールがあり寝落ちしそうになっている人物が描かれた郷土史の絵をラベルに使っています。夜をイメージした黒ビールです。今はインスタグラムで発信していて、パっと目を引くデザインが拡散されやすいので、その郷土史の絵をそのまま使うのではなく、英語の蛍光色の言葉を入れたり、他にもメタリックなモザイクのデザインのラベルを作ったりしています。
液種的にも昔ながらのスタイルのビールではなくて、ホップをたくさん入れた、濁り系でトロピカルな苦みの少ないビールとか、コーヒーの黒ビールとか、少し抜け感のあるビールを出しています。






SNSも意識して、ハッシュタグ#かまど と短く覚えやすいよう、かまどブリュワリーという名前にしました。また他のクラフトビールはホップや麦のキャラクターを使っているところが多いのですが、それだと埋もれてしまうので、地元のモチーフのかまどを使いました。

杉原さんの杉原酒造も魅力的なウェブサイトをつくられていますが、東さんからのコメントを受けて、今後の取り組みたい広報などはありますか?

日本酒「射美」

杉原:おじさんなのでSNSとかはついていくのが大変でなかなかうまくやれていないんですけども(笑)。1番最初が売れていない状態からのスタートでしたので、「売れないんだったら売れないでいいや」というスタンスでやっています。
正直最初は酒造りをしながら、アルバイトもかなりやっていたほどで。でも「売れないなら売れないでいいや」スタンスが逆によかったのかなと思っています。
僕の販売方式は、つくる人、売る人、飲ませる人、を明確に役割分担しています。うちの妻でさえも酒屋さんで買わせています。だから酒屋さんは買う場所、飲み屋さんは飲ませる場所というやり方をしています。海外に今8カ国出していますが、全て同じようにやっています。ラベルの、「射美」という字は、習字の先生のお客さんが書いてくれたものです。「お酒が良かったら書いてください」とお願いしたものです。裏張りは日記になっていて、僕の好きなこと書いています。自分らしさを出したいというのが僕の営業方針ですね。

杉原さんは当初は経営状況が厳しい中、どのように困難を乗り越えてこられたのでしょうか。

杉原:帰ってきたときは負債もすごい金額があるような極限の状態でして。そのまま倒産したら家もなにもかも持っていかれるような、そういうスタートでした。当初はなかなかうちのお酒を買ってくれる酒屋さんがなく苦労しましたが、逆転の発想で考えようと思い、逆に売る場所を徹底して追及しようという試みを始めました。あの頃は「地産地消」という考え方だったのを「地産他消」に切り替えました。また、自分の飲みたいものを造ろうと思いました。自分の飲みたいものを造って、もしそれが売れなかったらまあしょうがないかなと。そういうことが積み重なっていって、そういった発想になったのだと思います。助け舟になったのが大垣ケーブルテレビのドキュメンタリー番組の放送です。1年間を通して僕の作業を取材いただき、それが映像大賞を獲りまして、爆発的なPRになりました。極限の状態から常に考え、いろんなところでいろんな人に教えてもらいここまでやってきました。

東:今後、岐阜県で両者一体となってお酒を盛り上げるにはどうすればよいと思われますか?

日本酒造りの様子③

杉原:1番最初、酒蔵を継いだ時に日本酒が売れるなと感じたところは、味の差別化がしやすいという点です。クラフトビールも味の差別化がしやすいと思いますので、そういった点から岐阜県の日本酒・クラフトビールということでコラボできるんじゃないかなと思っています。今年は白麹を使ったホワイトというお酒や、ウイスキーのように樽で寝かせたバレルという酒を造ります。色々な発想で自分が飲みたいものをつくっています。

東:そういった発想はクラフトビールのものかと思っていたので、日本酒でもそういう差別化があるなんて驚きました。

東さんも杉原さんも様々なことにチャレンジしてきていますが、どのようなモチベーションをもってやっているのでしょう?

体操の撮影風景

東:協力隊の経験から、フットワークの軽さは身についたと感じています。バングラデシュでラジオ体操をつくったときも、運動習慣や健康習慣がないというところに、なんとか思いを伝えたいという一心で動いていました。国営テレビ局に売り込みに行ったり、他の隊員が省庁の大臣に会いに行くというときには勝手について行って、DVDで勝手に体操を見せたり(笑)

杉原:やっぱりその積極性と柔軟性なんですね、協力隊の人っていうのは。そういう強さを持っているんでしょうね。

最後にJICA海外協力隊への応募を考えている方々へお二方からメッセージをいただければと思っております。

東:協力隊のときはがむしゃらで、くさりそうだった時もありましたけど・・・
目の前で起きていることを真摯に受け止めることで色々なものが見えてくるということを学びました。文化の違いも言語の違いもトラブルも含めて真摯に受け止めて、目をそらさずに解決法を探していけば、何か自分の身になると思います。私は大事にしていたヤギを犠牲祭で食べられちゃって心に傷を負ったりもしましたが(笑)。今日本も貧しくなってきているというか、本当に今が踏ん張り時だと思うので。そういう経験をして帰ってきて、また面白い日本につながっていけばいいなと思います。

杉原:僕も向こう行ったときは結構必死でして。僕は向こう行って3日目で道で喧嘩に巻き込まれたんです。その時殴ってきた子に対して最初は、「あいつ絶対許さない。もう日本帰る。」とかばっかり考えていたのですが、相手も時間を持て余していてやることがない、でも力が有り余っている、それをぶつける場所がないというのをだんだん理解できるようになりました。その子は最終的にサッカーチームに入って、一緒にサッカーをやっていました。国や人種が違ってもみんな何かしらの理由があり、なんらかのものを抱えているんだっていうものを勉強させられたというか。そういう視点を今も変わらず持っています。だから協力隊に行ったら、そういうものを見逃さないでほしいです。