≪氏名≫
金城 進(きんじょう・すすむ)
≪派遣年度≫
1990年度
≪派遣国≫
サモア
≪職種≫
土木施工
≪略歴≫
名護市出身。大学卒業後、大阪のゼネコンで土木技師として勤務。1985年に名護市役所に入庁。1990年にJICA海外協力隊に参加。帰国後、市役所に復職する傍ら、宮古島市のJICA草の根技術協力やJICA技術協力プロジェクト「沖縄連携によるサモア水道公社維持管理能力プロジェクト(CEPSO)」の専門家として再びサモアへ派遣。CEPSOフェーズ2ではチーフアドバイザーを務めた。
≪本文≫
幼少期の夢を追って、土木施工で南の島へ
「大きくなったら南の島に行く」。金城さんのこの夢は、戦前、日本の占領下にあったサイパンに移民していた母から聞いた南洋諸島 の話がきっかけでした。高校生の時に『我ら青年海外協力隊』という本に出会ったことでJICA海外協力隊への参加の検討を始め、大学では土木工学を専攻します。卒業後は、大阪のゼネコンでダム建設や発電所施設工事に従事し、5年後に名護市の技術職員として再就職しました。合計9年の実務経験で培った技術と、土木施工管理技士の資格を取得したことで、協力隊参加への準備が整いました。31歳で応募し、念願だった南の島へ土木施工隊員として派遣されることになりました。
協力隊として派遣されたサモアで同僚と水道工事
サモアでは、公共事業省水道課に配属され、老朽管更新、漏水修理、水源施設整備などを指導。建設機械が不足する中、ツルハシとスコップで作業することもありました。赴任当初、サモア人に「君の仕事を助けてあげる」と言われ、途上国の国づくりを助けるという意気込みが、実は上から目線であったと気づかされました。サモアの人々は「失敗しても人を責めない、沖縄でいう『てーげー』とは違う優しさやおおらかさがありました」と金城さんは振り返ります。
地域に国際協力を浸透させた仕組みづくり
帰国後、金城さんは名護市役所へ復職しました。2010年、宮古島市が、同市浄水場の緩速ろ過施設と同様のシステムを持つサモアの支援をしているという新聞記事を見つけ、担当課長に連絡を取り、短期専門家として同行することになりました。このプロジェクトが、その後の15年に及ぶサモア水道技術プロジェクトの始まりとなります。
金城さんは、自身の国際協力の経験を多くの職員と共有するため、市役所職員をサモアへ連れていくことや、大洋州からの水道技術研修員の受け入れを実現していきました。これにより、地域の国際協力へのハードルが下がり、また「教えるためには自分たちも体系的に学ばなければならない」という意識が職員のスキルアップにつながりました。宮古島市のプロジェクトを含め、これまでに沖縄県から59人の専門家が派遣され、サモアからは65人の研修員が沖縄で研修を受けています(2025年1月時点)。
自治体が組織として国際協力プロジェクトに参画するためには、上位計画に位置づけて明文化することが重要でした。
管路図素図作成などの指導を行う金城さん(左から5人目)
金城さんの働きかけにより、名護市の第5次総合計画と地域水道ビジョンに「国際協力」と明記され、沖縄県21世紀ビジョン後期計画の改訂の際には、これまでの「アジアとの架け橋」という文言を「アジア・太平洋地域との架け橋」とすることを名護市から県へ提案し、採択されました。
個人的な思いから始まったサモアへの関わりは、周囲を巻き込み、次第に公共的なものへとなっていきました。
サモアで学んだ水資源を守るという意識
金城さんは、派遣された沖縄県水道事業体の短期専門家たちに、技術支援をするだけでなくサモアからも学んでほしいと伝えています。金城さんには、協力隊時代に忘れられない経験が2つありました。
1つ目は、サモア史上最大と言われたサイクロンの襲来で、4日間家から出られなくなり、雨水を飲んで過ごした経験です。この時「飲み水は最も重要なライフラインだ」と痛感しました。2つ目は、水源地の工事をしていたところ、下流の村の水源を汚してしまい、村人がライフル銃を持って怒鳴り込んできたことです。サモアには村ごとにマタイという自治組織がありますが、マタイの合意なく行政が工事を行ったことが問題でした。この経験から金城さんは、地元との調整と信頼関係がいかに重要であるか、そしてサモアの人々が水資源を守ろうとする強い自治意識を持っていることを学びました。
沖縄本島では、水源のほとんどは北部のダムでまかなわれており、中南部の市町村へ供給している「北水南送」の構造があると金城さんは言います。市役所勤務時代は、水源地域の自治体として、県企業局及び受水自治体へ持続的水源保全のための交渉を重ねてきました。2024年には沖縄本島で水不足のため、県が県民に節水を呼びかける事態が起こりました。「途上国の状況を自分事と捉えて、これから沖縄が直面するかもしれない水問題に取り組むことが必要」だと金城さんは話しています。
外からの視点と地元の力が融合する地域づくり
市役所では企画部にも配属され、名護市の地域活性化にも取り組みました。 名護市東海岸二見以北地域は、過疎化と高齢化が進み、4つの小学校が閉校となるなど、人口減少が著しい状況でした。当時は、拠点施設として「わんさか大浦パーク」が完成したばかりで、その運営が課題となっていました。金城さんは、地元に補助金を与えるのではなく、人を育て、仕事を生み出すことが重要だと考えました。そこで、名護市単独予算で、移住を前提とした外部人材を配置し、地域資源を生かしたコミュニティビジネスを展開する事業を立ち上げました。この「外部人材の配置」や「地元が主体となる」という考え方は、国際協力で得た知見を応用したものでした。
中心市街再生の取り組みを地元小学校の生徒へ説明する金城さん
金城さんは、長年にわたりサモアとの関わりや地域づくりの活動に携わり、数々のプロジェクトを育ててきました。「自分ひとりではできないことも、人の力を借りることで可能になることがあります。自ら求めて探していくと、必ず出会いがありました。『出会いは必然』だと感じています」と語ります。
これから協力隊への参加を考えている方々へ向けて、「信頼関係を基盤としたネットワークづくりの重要性を理解して、活動に取り組んで下さい」とエールを送っています。
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