jica 独立行政法人 国際協力機構 jica 独立行政法人 国際協力機構

新たに着任した日系サポーターをご紹介します!

2025.07.08

東京センターでは5月に2名の日系サポーターを迎えました。
南米ペルーからは、クラウディア・サオリ・タマナハさんが5月11日に来日。NPO法人多文化フリースクールちばにて外国つながりの子供たちの日本語指導、支援等の活動を開始しています。

サオリさんに、応募に至るまでの人生や日系サポーターになったきっかけ、今後の抱負などを伺いました。

日系サポーター「外国につながりのある子どもたちに対する学習支援と日本社会の多文化共生」

                               クラウディア・サオリ・タマナハさん
                            (NPO法人多文化フリースクールちばにて研修中)

サオリさんは、ペルーの首都リマ市で日系人夫婦の一人っ子として生まれました。5歳のころ、早くも人生の大きな転機が訪れます。 親に「日本に行くよ」と言われ、突然渡航することになったのです。 「日本に行けることが分かって、子供ながらにわくわくした気持ちでした。しかし、『行くよ』以外の説明はなく、旅行で行ってすぐ帰ってくる、と思い込んでいました。なので、日本の学校に入学することになったときは、戸惑いがありました。」
実際に日本に渡ると、先に来日していた同年齢ぐらいのいとこたちがいたため、さほど淋しくは感じなかったそうです。
しかし、最初の1年は学校で戸惑うことが多かったといいます。
「小学校に入学して間もない頃、授業参観日のことでした。 算数の時間でごく基本的な『数』の授業がありました。 先生は児童一人ひとりに質問をあてていきました。示されたりんごの数を、声を出して数える、たったそれだけのことでしたが、日本語がままならなかった私には難しかったです。 先生はついに私をあてましたが、答えられず黙り込んでしまいました。」
先生は回答を促しましたが、サオリさんは何も言えず、困惑するばかりでした。 次第に先生の口調が荒くなっていくのが分かり、不快な沈黙が続きました。
「状況を見かねて、後ろで見ていた母親が近づき、スペイン語で説明をしてくれました。それを見ていた先生は不思議そうな表情をしました。先生は私が日系人であることを事前に把握しておらず、また名前も外見も日本人と変わらなかったので、日本語の理解できない子供であることは気づかなかったようです。」
この出来事の翌日から、学校の配慮で日本語クラスにも参加するようになりました。

両親と共に、祖先の故郷沖縄にて。

苦労する場面はしばらく続きましたが、1年経ってようやく学校に慣れ、 2年生になる頃には友達もできました。
「来日の目的はデカセギでした。父と母はいずれも仕事で忙しく、学校から帰宅したのは自宅ではなく、おじの家でした。一人っ子のため、親の帰宅までいとこたちと過ごすよう、両親が調整してくれました。時にはかなり遅くなることもあり、そのままおじの家に泊まることもありました。」
親と過ごす時間は限られていたものの、日本での生活に慣れ、友達もでき、楽しい日々だったそうです。
しかし、9歳の時、サオリさんに再び人生の大きな転機が訪れます。 親から「ペルーに戻る」と告げられたのです。来日時と同様、理由などの詳しい説明はなく、事前の相談もありませんでした。
「本当は帰りたくなかったです。友達もいたので、離れるのがとても淋しかったです。」
ペルーに着くと、サオリさんは現地の学校に編入することになりました。しかし、日本での生活にすっかり適応したあとの突然の帰国。スペイン語の授業についていくことができず、困惑の日々が始まりました。
「授業が理解できず、困惑しました。 ある日、算数の時間、数字の「11」を誤って読み上げ、からかわれました。スペイン語では「11」のことを“once”と言いますが、それを知らなかった私は、きっと日本語の「じゅういち」(10と1)と同じだろう、と考え、“Diez(10) y uno(1)”と言ってしまいました。これを聞き、周りは嘲笑しました。」 翌日登校すると「見ろ、『10と1』の子が来た」と誰かが小声でささやいたのを聞きました。とにかくその場から逃げたい気持ちだったと語ります。
帰宅後、母親に全てを打ち明けました。すると心配した母親は、出稼ぎから戻った子供たちや日系人が多く通う私立学校への転校を決意しました。サオリさんはそこで、同じような境遇の子供たちと出会い、徐々にペルーでの生活に慣れていきました。

親戚と共に(ペルーにて)

ペルーから来日し、その後母国に戻ったサオリさんのケースは、決して珍しくありません。
来日時は言葉や文化の違いに戸惑い、慣れるまでにストレスがかかり、そして慣れた頃に再び母国へ戻ることによって、また新たなストレスを経験することになります。

サオリさんはこうした苦難を乗り越えてきたからこそ、自分にしかできないことがあると考え、日系サポーターに応募しました。
「学校を卒業したあと、歯科大学に入学しました。同時に、語学学校で日本語教師養成講座を受講することにしました。 しかし、大学2年次だったある日、ペルー日系人協会(Asociacion Peruano Japonesa-APJ)主催のイベントに参加したときのことです。JICAペルー事務所のブースにたまたま立ち寄った際、スタッフから日系サポーターの説明を受けました。 そのような研修があることを知り、衝撃を受けました。 日本でかつて苦労した経験をもとに、同じような苦しい思いをしている子供たちを支援することができる、そう思うと興奮すら覚えました。」
「あなたは日本語ができるので、求められる人材像に当てはまると思う。」
JICAスタッフの言葉にも後押しされ、帰宅後両親に思い切って相談すると、両親は全面的に応援してくれました。「大学の勉強を中断してでも行く価値がある」そう言って背中を押してくれたそうです。サオリさんはJICAブースで説明を受けたその日のうちに、応募の意思を固めました。
そして、NPO法人多文化フリースクールちばの提案表案件に応募し、合格しました。

他の研修員と共に(横浜にて)

まだ研修は始まったばかりだが調子はどうか尋ねてみると、こう答えてくれました。
「少しずつですが、着実に何らかの貢献をしているとの実感が積み重なっており、嬉しいです。ネパールから来日した子供と初めて会った時のこと。日本語が全くできず落ち込んでいる様子でした。」 
この子の姿が、かつての自分の姿と重なりました。
「この子に積極的に声を掛けるようにしたところ、しばらくして担当の先生から『サオリさんがこのクラスにくるようになってから、あの子は声を出すようになり、笑顔もみられるようになった』と嬉しそうに伝えてきました。本当に良かったと思いました。」
自分の力が誰かの役に立っていることは、何にも代えがたい充実感をもたらしているといいます。

活動の様子

歯科医師を目指していた当初の進路から、より自分らしい支援の道へと舵をきったサオリさん。
将来は多文化間カウンセリング等の支援ができるようになりたいと語ります。そのため、心理学をはじめ専門的な知見を身に着けたいとのことです。そしてできればこのテーマをライフワークにしていきたい、と力強く語ってくれます。
日本での研修はまだ始まったばかり。今後のサオリさんの活躍に期待が膨らみます。

クラウディア サオリ タマナハ シマブクロ
Claudia Saori Tamanaja Shimabukuro

※JICA「日系サポーター」の詳細はこちら:日本の中南米出身者を支援する「日系サポーター」とは?|JICA MAGAZINE | 広報誌 JICAマガジン

\SNSでシェア!/

  • X (Twitter)
  • linkedIn
一覧ページへ