アフリカで学んだ野球の三つのチカラ

友成晋也さん
一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構(J-ABS)代表理事

~「あなたらしく」生きていると思えるのはいつですか?~
キャッチボールができるようになった子の笑顔を見たとき

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アフリカにおける野球の始まりの物語には、一人の野球好きな日本人がいます。それが元JICA職員であり、特定非営利活動法人アフリカ野球友の会や、一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構(J-ABS)の代表として日々奮闘してきた友成晋也さんです。野球を通じた教育や平和構築を目指す友成さんの過去と気づき、そして未来を聞きました。

「野球では、二人一組でボールを投げ合う行為をキャッチボールと呼びます。『投げる』のスローボールとは言わず、『捕る』のキャッチボールと言うのは、“おたがいを受け止める”ことが大切だから」と力を込めて話すのは、J-ABS代表理事の友成さん。アフリカでは野球はマイナーなスポーツで、野球ボールを手で捕ることを知らない人が大半です。ですから友成さんは、アフリカで野球を知らない子どもと初めてキャッチボールをするときには、ボールは手でキャッチすることを伝えて「レッツ プレイ キャッチ! Ready?」と大きな声をかけるそうです。相手に「投げるよ!」と声をかけ、相手も「OK!」と応じて声をかけ合い、相手の様子を見る。それがキャッチボールの基本であり「声かけの一往復」で、相手を思いやることにつながっていくそうです。
「まず受け止める」ことが一番大切と言う友成さんは、それは野球に限らず、社会に出てからも大切なことだといいます。「自分の主張ばかりしていたら喧嘩になってしまう。だから、キャッチボールができるようになった子の笑顔を見ると、『野球が培う相手を受け止めるチカラ』がこの子にも芽生えたとうれしくなるんです」。

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JICAに約30年在籍した友成さん。話を聞いたJICA東京センターの中庭で。

アフリカを理解し、今の自分をつくった
ガーナでの経験

友成さんが野球を始めたのも、父とのキャッチボールからでした。中学・高校・大学と野球部に所属し、社会人になってからも野球を続けていましたが、彼の「野球」の転機となる出来事が、1996年にJICAの事務所員として勤務した西アフリカのガーナで起こります。きっかけは赴任する前、友成さんが所属していたJICA野球部のメンバーと友成さんが、任地であるガーナに寄付する野球道具を集めたことが、出発1週間前に日本の新聞に掲載されたことでした。これを読んだガーナにあるJICA事務所が、予定されていた同国のナショナル野球チームとの試合に赴任直後の友成さんを誘ったのです。友成さんは、打つのも守るのも目いっぱい楽しみましたが、そんな友成さんの姿と、確かな野球のスキルを見た同国の関係者から、ぜひコーチとなって野球を教えてほしいと依頼が舞い込んできました。そして、監督がいない同国のナショナル野球チームのコーチから必然的に監督へと就任することになったのです。
「監督就任当時は、怒ったり、詐欺に遭ったり、話を聞いてくれなかったり、とても大変でした」、と友成さんは話します。しかし、「ガーナ赴任前に出た新聞記事の掲載日は、父親の命日でした。父ががんばれと応援してくれている気がして、前を向いてやり遂げられました」と振り返ります。「今の自分をつくったのは、ガーナでの経験によるものが大きい。なんでも許せちゃう『鈍感力』が磨かれました。起きたことはしょうがないと痛みを鈍らせる感じでしょうか。その後、ほとんど怒ることがなくなりましたよ」と優しく笑います。
3年後、友成監督とともに練習したガーナのナショナル野球チームは、任地を離れる前に参加したアフリカ大陸のオリンピック出場国を決める大会で4位にくい込むという偉業を成し遂げるまでになりました。そして、国内では、選手たちがコーチとなって子どもたちに教えた野球は普及し始めていました。友成さんとナショナル野球チーム30人から始まったガーナの野球は、数百人の子どもたちが楽しむスポーツとなっていました。
「振り返っても、ガーナでの3年間が人生の中で一番過酷でしたが、やるからには全力でと奮闘しました。だからその後、野球の持つ素晴らしいチカラに気づくことができたのだと思います」

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ガーナのナショナル野球チームで指導する友成さん。写真提供:友成晋也

アフリカで学んだ三つの野球のチカラ
一つめ
「民主主義を広めるチカラ」

3年間過ごしたガーナから帰国する日が近づいたある日、友成さんの野球観と人生観をがらりと変える出来事が起こります。
12歳くらいの子どもに野球のどんなことが好きかと聞くと、「バッターボックスが好き。バッターボックスは、自分もヒーローになれるし、味方に平等に順番が回ってくるから」とその子は答えたそうです。

Baseball is democratic. That’s why I love baseball.
野球は民主的なスポーツ。だから野球が好きなんだ!

友成さんは当時35歳。それまで野球が民主的なスポーツと考えたことなんてありません。少年が暮らす地域は貧困が蔓延し病院にも行けず、食事もままならないような環境です。道具が必要な野球より、サッカーや陸上競技の方が好きなはずと思っていたのに、野球はお金持ちでもそうでなくても順番にチャンスが回ってくるスポーツだから好きという言葉は、人生観を変えることになりました。
「まるで雷に打たれたようでした。今も変わらずに活動を続けられるモチベーションは、彼の言葉がずっと胸にあるからです」

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友成さんの著書『アフリカと白球』には、ガーナでの涙あり笑いありの、野球にかける感動の3年間がつづられています。

二つめ
「人を育てるチカラ」

ガーナから帰国した後の2003年、「一人でも多くのアフリカの子どもたちをバッターボックスに立たせてあげたい」と、業務のかたわらNPO法人アフリカ野球友の会を立ち上げます。その後の約10年間、友成さんはアフリカでの野球普及に努め、2011年にふたたび、現状を知ろうと始まりの場所ガーナへ向かいます。学校を回ると、校長先生から「野球をしている子はみんな成績がいい」と教えられます。次の学校、その次の学校でも、同じことを言われるのです。「規則正しく、おたがいを尊重し、正義をもってスポーツする」という友成さんの教えを、1999年当時のナショナル野球チームの選手が子どもたちに教えていて、その子たちが20代になり、今度は小学校で教えていたのです。「クラスでリーダーシップを取り、勉学に向き合える人」が自然と育っていました。
「野球は、人づくりから成績まで上げられちゃう。野球には人を育てるチカラがあるんだと、大きな気づきでしたね」と振り返ります。

三つめ
「平和を作るチカラ」

2018年、暫定政権を樹立した南スーダンでJICA事務所の所長として勤務することが決まった友成さんは、段ボール一箱分の野球道具を持って赴任しました。「防弾車に乗って毎日暮らすことになるから、野球はできないだろう……。けれども、ホテルの従業員もいるわけだし、キャッチボールくらいはできるかも」と考えていました。
ある日、街中を防弾車で走っていると、グラウンドが見えたそうです。ジュバ大学のグラウンドでした。土のいい匂いと、石ころもないきれいなグラウンド、そして、日本の国旗が描かれた看板。自衛隊のPKO部隊がインフラ整備をしていたのです。後日、ふたたび訪れると、寝そべっている子どもたちがいました。
「野球やろうぜ!」
友成さんが声をかけて南スーダンに青少年野球団ができた瞬間です。草野球から始まった南スーダンの野球は、子どもたちから教師や周囲の大人たちへと広がっていきました。野球団の子どもが通う学校の先生が見に来るようになり、学校でセミナーを開いたり、校庭でキャッチボールを指導したりするうちに野球チームができ、さらには女の子も参加するようになっていきます。
その後、友成さんは、野球を国中に広げようと南スーダン野球連盟を立ち上げます。「暫定政権下でありゴタゴタしているのに、いがみあっている民族同士が野球の普及に向けて力を合わせました。彼らは、子どもたちとそして国の未来を見据えて、手を結んで活動をしました。そのとき、野球には平和をつくるチカラがあると確信したのです」。

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南スーダン青少年野球団の練習と試合の様子。写真提供:友成晋也

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南スーダン初の野球連盟発足時の様子。写真提供:友成晋也

野球を通じた
信頼ネットワーク

ガーナから始まった友成さんのアフリカ野球の活動は、アフリカ各地を「信頼」の絆でつなぎ、今年で28年目になります。
「JICAの経験があったからこそ今の広がりがありますし、先にアフリカ野球友の会で活動をしていたころから、いろんな国に野球を通じたネットワークができました。野球はアフリカではまだマイナーだけど、野球の魅力に共感し賛同し野球連盟の会長に就任してくれる方は、政財界にネットワークを持っている人が多いんです。アフリカ各地で野球大会を開催していくことは、日本企業にとっても、僕たちが築いてきた信頼ネットワークを通じてアフリカに進出する機会にもなり、共感ビジネスとして広がっていくのではないかと思っています」
J-ABSのスタッフである新宮会紀子さんは、アフリカ野球友の会の時代から友成さんと一緒に活動をするメンバーの一人。「講演会でお会いしたとき、友成さんは大人だけど子どものような純粋な姿勢が伝わってきて、きらきら輝いて見えました。20年近くたちますが、野球好きの思いも曇っていませんし、今も変わらず伝わってきます。ネガティブなことを言わず、トラブルに遭っても乗り越えていくポジティブマインドがみんなを引っ張っています。一般財団法人として新たにスタートをしましたが、友成さんは前向きな行動力で猛進しています。そうした活動は、子どもたちの教育や、世界の平和に向けて役に立っているんだと実感することができています」。

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記者会見の時のJ-ABSスタッフ集合写真。松井秀喜氏はオンラインで記者発表会に参加した。友成さんは甲子園プロジェクトを実現させるため、メジャーリーグでも大活躍した松井秀喜さんに共に活動をしてくれないかと熱烈なオファーをした結果、快諾してくれたという。後列左から3番目が新宮会紀子さん。写真提供:友成晋也

友成さんは、夢を実現するパートナーとして松井秀喜さんをJ-ABSの活動に迎えて「アフリカ55甲子園プロジェクト」をスタートさせました。「アフリカの55の国と地域で甲子園大会を開催したい!」とすでに6か国で協定を結び、ベースボーラーシップ™(野球を通じてスポーツマンシップを育む手法)セミナーを開催して、2024年はさらにカメルーンとザンビアでも事業を広げていく予定です。タンザニアとケニアで甲子園大会が実現し、今後はさらにガーナやナイジェリアなどでの大会開催を目指して挑戦を続けています。

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2022年に開催したタンザニア甲子園大会の様子。整列しておたがいに礼をする日本式の野球スタイルでプレイボール。写真提供:友成晋也

プロフィール

友成晋也 ともなり・しんや
一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構(J-ABS)代表理事
慶応義塾大学卒業後、リクルートコスモス社を経て、JICAに約30年勤務して国際協力業務に従事。JICA初の兼業を許可され特定非営利活動法人アフリカ野球友の会を立ち上げて、2020年にJICAを早期退職するとともに同友の会を解散。新たに「野球のチカラでアフリカと日本の未来を創る」を理念に掲げて掲げ「J-ABS」を創設し現在に至る。2021年に『ニューズウィーク』誌の「世界が尊敬する日本人100」に選出された。
主な著作物と寄稿に、『アフリカと白球』(文芸社)、「アフリカの開発に野球を:野球が教えてくれたアフリカの今と未来」(アフリカ協会機関誌『アフリカ』)、「野球人、アフリカをゆく」(朝日新聞ウェブサイト『論座』連載全31話、2019年4月~2020年8月)などがある。