JICA関西センター物語(3) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「なぜ須磨に兵庫センターがつくられたのか?」

2022年11月17日

JICA関西センターの前身の兵庫インターナショナルセンターが神戸市須磨区一ノ谷に開設されたのは1973年8月。そしてここ神戸市中央区のHAT神戸に移転してきたのが今から20年前の2002年4月のことでした。旧センターは解体され、今、その姿を見ることはできません。
このたび現地を訪問し、センターの設立に深く関わっていらっしゃった方から興味深いエピソードを伺うことができました。今回はその時の話を中心にお伝えします。

観光ホテルが研修センターに

1973年に設立された兵庫インターナショナルセンターにおいて、建設費用や敷地など経費の一部を兵庫県と神戸市に負担していただいたことは、前回ご紹介した通りです。
この施設は、元は1964年に観光ホテルにすることを目的として建設が始まりました。しかし工事が中断し、手つかずの状況が長年続きました。この未完成物件をOTCA(注1)が買い取り、研修センターとして改築、完成させたのです。施工は竹中工務店(大阪本店)でした。工事が始まったのは1973年2月。完成は同年7月。翌8月に開所となりました。

このホテルの施主は、高級老舗旅館「須磨観光ハウス 味と宿 花月」を経営している(株)須磨観光ハウスです。その隣に新たな宿泊施設を建設することになりました。それが将来の兵庫インターナショナルセンターとなります。ちなみにこの旅館は、昭和13年(1938年)に神戸市の迎賓館として建てられたとのこと。戦時中は大阪湾を見下ろす高射砲の管理者が、また戦後はGHQが宿舎として使用していた時期もあったとのことです。
現地でこの旅館のマネージャー、金井孝夫さんにお会いすることができました。金井さんの先々代(ご祖父様)がこの旅館を創業されたとのことです。金井さんのお話です。

「かつて兵庫インターナショナルセンターが建っていた土地は、当初は当社が購入しました。ホテルの建設は1964年に始まりました。当時の日本は高度経済成長期。東京オリンピックも開かれ、これから外国人観光が増えると見込み、外国人にも合ったホテルを作ろうと考えたのです。大阪国際空港(伊丹空港)から直接到着できるように屋上にはヘリポートも建設する計画でした。しかし諸事情で工事が中断してしました」。
しかしある出会いがこの建物に全く異なる任務を授けることになります。
「当時から兵庫県の関係者の方にもよくこの旅館を利用いただいていましたが、ある日、『県の方で研修所を探している』というお話があり、中断していたホテルの話をさせていただきました。それがきっかけでこの物件を購入していただくことになったのです」。

ところで旅館とその物件との間には「三の谷」と呼ばれる少し深い谷があります。この谷を越える橋は、OTCAに工事が引き継がれたときにはすでに完成していたそうです。橋の名前は「叶橋(かないはし)」。創業から続く金井(かない)家の家名が由来です。この橋ができるまではお互いの行き来はできなかったとのこと。「分断されている地域の人たちを結ぶことによってみんなの夢が叶うように」。そんな思いも込められているそうです。

(注1)特殊法人 海外技術協力事業団(Overseas Technical Cooperation Agency)の略。JICAの前身となる組織の一つ。

兵庫県とともに活用されたセンター

完成した兵庫インターナショナルセンターは、地上5階建てで73室ありました。シングルルーム(66室)以外に、ツインルーム(4室)、広さがシングルルームの倍以上の特別室(2室)、さらに和室もあったと記録があります(注2)。前回お伝えしたとおり、このセンターはJICAと兵庫県が共同で使用していました。今でこそ当センターは関西2府4県(注3)を所管地域として年間約250コース、1,700名(コロナ以前)の研修員(注:多くは開発途上国政府の行政官)を受け入れていますが、センターが開設された1973年度は5コース、42名との記録が残っています。研修員等のJICA関係者に限ればセンター利用率は2割程度でした。しかし兵庫県関係の宿泊者による利用も多く、センター全体としてはかなり高い利用率を記録していました。このセンターがいかに兵庫県の協力を得ながら運営されていたかうかがい知ることができます。

兵庫県から無償で提供されていた敷地は、2002年のHAT神戸への移転後、県との契約にもとづいて原状回復して兵庫県にお返しする必要があったため、建物は取り壊され、更地になりました。兵庫県に戻されたあと、土地は競売にかけられました。現在の所有者は神戸市に本社を置く民間企業です。

(注2)現在のJICA関西センターは地上13階建。96室(シングルルーム92室、ツインルーム4室)。
(注3)滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県

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兵庫インターナショナルセンター跡地。自然豊かで風光明媚な環境は今も昔も変わりません。ここにかつて多くの外国人が学びに来ていたことを知らない住民も増えました。

周辺住民の理解を得ながら

最寄り駅の山陽電鉄の「須磨浦公園駅」からセンターに行くには二つの道がありました。「公道」と「私道」。どちらも急な坂道を登らなければならないことに変わりはないのですが、「私道」を使うと近道になるため、徒歩の人はほとんどそちらを使っていたそうです。私道は周辺住民が自分たちの土地を出し合って造ったものでした。当時のセンター利用者向けのパンフレットには次のような記載があります。

「『公道』は回り道となったり、夜暗く、人通りもないことから周囲に住む方々の厚意により、特別に(『私道』の)通行を許してもらっています。皆さんはこのことを十分認識し、通行してください。」

それでも周辺住民とはトラブルになることがありました。「外国人に家の中を覗かれた」、「車が傷つけられた」などとクレームされては私道を利用できないよう途中のフェンスに鍵をかけられたこともよくあったとのこと。しかし、話し合いを通じて住民の理解を得ることができ、そのようなことはほとんどなくなっていったようです。また住民の皆さんに大変感謝されることもありました。1995年の阪神・淡路大震災の直後、しばらく避難所として使用されたことがあったのです。震災当日の様子は近々この中で取り上げたいと思います。いずれにしても近隣住民とのお付き合いはとても重要だったようです。

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パンフレット等に使用されていたセンター案内図。ここに「私道」は記載されていません。「公道」を使った場合、「須磨浦公園駅から徒歩7分」と記載されています。

この兵庫インターナショナルセンターは、運営体制もたいへんユニークでした。次回はそれについてお伝えしたいと思います。

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦