JICA関西センター物語(7) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「JICAと兵庫県が“国際センター”に求めたもの」

2023年4月27日

2002年、神戸市須磨区一ノ谷にあった兵庫インターナショナルセンター(現在のJICA関西センター)が神戸市の東部新都心、通称「HAT神戸(注1)」に移転しました。移転の契機となった理由の一つが1995年の阪神・淡路大震災です。前々号(JICA関西センター物語(5))でセンターの被害は幸いにも小さくて済んだことをお伝えしておりましたが、影響は少なくありませんでした。また震災の時点で開館から22年、さらに着工からは30年以上経過しており(JICA関西センター物語(3)参照)、建物や施設の老朽化は大きな課題となっていました。
しかし移転の理由は老朽化だけではありません。1991年にはすでにJICAと兵庫県双方でこのセンターの移転先を含む「国際センターのあり方」を検討していました。今回は移転に至るまでの経緯を紹介します。

(注1)神戸市の東部新都心として開発された地区の愛称。「Happy Active Town」の略。摩耶山の南、ウォーターフロントに開けるこの地域が、ハッと変貌し、誰もが幸福で、活気あふれる街となるように願いを込めて、公募を経て命名された。

JICAの“研修施設のあり方”

1991年時点でJICAは全国11の研修センター(注2)で研修員受入事業を行っていましたが、事業規模の拡大、また東京一極集中(注3)により東京での受入が既に限界を超えている状況にあり、これらの課題の解決が急がれていました。さらにこの頃から研修センターも単に研修員を受け入れるだけではなく、地方自治体側が進めていた国際交流事業などを支援することも期待されるようになりました。このような課題を検討するため、「研修施設のあり方に関する調査検討委員会」(座長:大島靖氏、(財)大阪国際交流センター会長(当時))が設置され、その初会合は1991年7月に開催されました。その中で、望ましい研修施設のあり方と基本モデルについて、以下のような内容が提言されています。

  1. 用地:地方自治体が有する国際交流エリア内が望ましい。
  2. 建物:JICAの建物はJICAで、自治体の建物は自治体でそれぞれ独立させ、隣接して、それぞれの負担で建設する方式が望ましい。
  3. 運営管理:第三セクターに委託することが望ましい。
  4. 規模:宿泊可能人数は100名程度以上とする。
  5. 機能:研修機能、宿泊機能の他、地方自治体等に対する途上国に関する情報提供機能等を付与させることが望ましい。

これらの提言は新たにJICAが研修センターを設置するときの指針でしたが、移転を行う際の重要なガイドラインとなりました。

(注2)東京インターナショナルセンター(新宿区)、東京国際研修センター(渋谷区)、八王子国際研修センター、筑波インターナショナルセンター、筑波国際農業研修センター、神奈川国際水産研修センター(横須賀市)、名古屋国際研修センター、大阪国際研修センター(茨木市)、兵庫インターナショナルセンター、九州国際センター(北九州市)、沖縄国際センター(浦添市)。その後北海道国際センター(札幌と帯広。1995年設立)、中国国際センター(東広島市。1997年設立)などが開設された。
(注3)1989年度、1990年度の研修員受入人数は東京3センター(東京インターナショナルセンター(新宿区)、東京国際研修センター(渋谷区)、八王子国際研修センター)だけで全体の6割を占めていた。(出典:「研修施設のあり方に関する調査報告書(平成4年2月)」より。)

兵庫県の“国際センター構想”

一方、兵庫県側ではその頃、“兵庫国際センター構想(仮称)推進委員会”が組織され、そのなかで国際センターのあり方が検討されました。しかしその中で提言された計画は長期間にわたって停滞します。センターの候補地決定が難航したためです。そのような中で、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発災しました。
同年4月、兵庫県国際交流課の中に震災復興のための国際化施設担当係が新設されました。その中で震災後の新“兵庫国際センター構想(仮称)推進委員会”が設置され、ふたたび構想がまとめられました。

この構想の中には「兵庫国際センター(仮称)とは」として以下の3つの基本的な考え方のもとに建設すると記載されています。

  1. 国際交流・協力推進の拠点
  2. 震災復興推進の拠点
  3. 各種国際化施設との相乗効果創出のための拠点

この構想に基づいて策定された「神戸東部新都心計画」(「神戸東部新都心」はのちに「HAT神戸」と命名)の中で、兵庫県は「兵庫国際センター(仮称)」の中の重要な一つの施設としてJICA兵庫国際センターを挙げています。この計画は、大震災からの復興を目指し「神戸市復興計画」のシンボルプロジェクトとして位置づけられていました。神戸市中央区の東部および灘区西部の臨海部(注4)、約120ヘクタール(甲子園球場の約30倍)を対象とした総合的な整備計画です。その整備の基本方針として、「国際的拠点の形成」が挙げられていました。先ほど述べたJICAの「研修施設の基本モデル」の「(1)用地:地方自治体が有する国際交流エリア内が望ましい」にピタリと当てはまる場所です。

(注4)震災前は川崎製鉄や神戸製鋼所などが操業していた。もともとは海であったが1927年頃から始まった埋め立てによって造成された。

【画像】

「東部新都市地区土地区画整備事業完了記念誌(2005年4月発行)」より。この中に、「整備の基本計画」が掲載されており、その一つに「国際的拠点の形成」が挙げられている。

HAT神戸以外の候補地

当時の兵庫県職員の方のお話によると、HAT神戸の他にいくつか候補地があったようです。
尼崎市にあった神戸製鋼(1965年までは「尼崎製鐵(注5)」)場の跡地、明石市の旧水産試験場跡(明石市役所の海側)、三田(さんだ)市のニュータウン、伊丹市内などでした。特に三田は当時、現在のような住宅地や文化施設ではなく、商業を中心とする地域にすることが検討されていました。当時の貝原知事も「JICAを誘致するなら三田がいいのではないか」とのご発言もあったとのことです。ただし、1990年代の三田の候補地は土地の造成中で、JICAの職員は長靴を履いて現場を視察したそうです。
どのような経緯があってHAT神戸に落ち着いたのか、この時に関わった方々の声は、今後詳しく取り上げていく予定です。

(注5)1965年に神戸製鋼が吸収合併。1987年閉鎖。

当時の関係者の方々からの情報提供

このたび須磨区一ノ谷にあった兵庫インターナショナルセンターで日本語教師として兵庫県の研修員受入事業に関わっていらっしゃった方から、当時の写真をご提供いただいました。

【画像】

2階の食堂でくつろぐ研修員たちです(1994年7月29日撮影)。

食堂名は「レストラン プチモンド」。建物は海に向かってせり出していました。眼下には播磨灘を臨む須磨海岸や桜の名所としても知られる須磨浦公園が広がり、研修員の方たちの目を楽しませていました。また当時も食堂は一般の方が利用することができ、大手出版社のレストランガイドブックにも掲載されるほど人気がありました。かつてこのセンターに勤務経験のある方によれば、クリスマスの夜には一般客が多く、研修員からは、「食事がとりにくい」という不満が寄せられたこともありました。また、2002年に神戸市HAT神戸にセンターが移転した後も、ときどき「レストラン」の利用に関する問い合わせがあったそうです。

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦