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-さらなるパートナーシップ発展のために- 「兵庫を拠点とする関西センター(上)」
かつて関西地域には、前身組織も含めて1964年以来、JICAのセンターは兵庫県と大阪府にありました。しかし現在大阪にはありません。2012年3月末、JICA大阪(茨木市)は閉鎖され、その業務をJICA兵庫(神戸市)と統合することなったためです。統合に併せてJICA兵庫は「JICA関西」と改称されました。
規模としては格段に大きかったJICA大阪が閉鎖され、JICA兵庫に統合されたのはなぜだったのでしょうか。そもそもなぜ統合されることとなったのでしょうか。
(写真:竣工直後のJICA大阪。外観南東面。1994年撮影)
【「事業仕分け」による評価】
前号では、2011年3月の東日本大震災の影響を受けてJICA大阪がJICA海外協力隊候補者の派遣前訓練のために使用されたことをお伝えしました。訓練所としての役目も果たしたわずか半年後の2012年3月末、JICA大阪は閉鎖されました。当時の民主党政権が内閣府に設置した行政刷新会議による「事業仕分け」を受け、JICA兵庫と統合することが決定されたためです。
そんな中で協力隊候補者の訓練を受け入れたことになります。当時のJICA大阪の職員の話です。
「大阪が閉鎖され、兵庫が『JICA関西』となることは決まっていました。『閉鎖前にこのセンターを最大限利用してもらおう』。そういう気持ちを強く抱いて業務にあたっていました。ただ、『もしここでJICA大阪が研修センター以外の役割を果たすことができれば、その決定を覆すことができるのではないか』。そんなわずかな望みを抱いて一生懸命訓練業務に取り組んでいたスタッフがいたのは確かです」。
その「事業仕分け」とはどんなものだったのでしょうか。
2009年8月、第45回衆議院議員総選挙が実施されました。自由民主党からの政権交代を果たした民主党がマニフェスト(選挙公約)の柱の一つとして掲げていたのが「税金のムダづかいの一掃」でした。それを実現すべく、内閣府の中に「行政刷新会議」が設置され、「事業仕分け」が行われました。
2009年11月24日、平成22年度予算編成に係る事業仕分け(第1弾)が行われ、JICAの国内施設の運営費(注1)はその第2ワーキンググループで議論されました。国会議員や民間有識者から成る評価者の「とりまとめコメント」は次のように非常に厳しいものでした。
「(前略)施設統廃合を行っていただきたい。とりわけ、札幌・帯広、横浜・東京、兵庫・大阪の統合をお願いしたい。(後略)」
(注1) 事業仕分けでは、JICA予算はその他、「調査研究の経費(JICA研究所を含む)」、「技術協力・研修・政策増等の経費」、「人件費・旅費・事務費・業務委託費等」、「無償資金協力」、「海外での各種会議等出席旅費」「有償資金協力」、「取引契約関係」、「職員宿舎」等が評価の対象とされた。
【施設、事業規模で優位だったJICA大阪】
「事業仕分け」では、「兵庫・大阪の統合」とあるものの、どちらを閉鎖するとまでは記載されていません。ただ、多くの関係者は兵庫が閉鎖されると考えていました。理由は施設の規模や機能の差です。
JICA兵庫は兵庫県の「国際交流広場(注2)」を加えても5,800㎡ですが、JICA大阪はそのおよそ倍の11,739㎡でした。宿泊施設も、兵庫は100名ですが、大阪は300名の研修員(注3)が宿泊できました(注4)。セミナールームも兵庫と大阪、それぞれ11室、22室でした。
事業規模も大きな差がありました。2009年度の研修事業実績(注5)をみますと、兵庫国際センターは69コース、530名の研修員を受け入れた一方、大阪国際センターでは155コース、1,122名といずれも倍以上です。
またJICA兵庫の担当地域は兵庫県のみでしたが、JICA大阪は大阪府の他、京都府、滋賀県、奈良県、和歌山県の二府三県を担当していました。
そのような状況にもかかわらず、神戸にJICAの拠点が残ったのはなぜでしょうか。
(注2)JICAが兵庫県と一体的に整備・開発することとなった土地。「JICA関西センター物語(9)」参照。
(注3) 開発途上国から日本に来てJICAの研修事業に参加する。研修期間は数週間から日本の大学院での学位取得を目指す最長3年まで多様。参加者の大宗は各国政府の行政官で、研修事業を通じて知見・技術を共有し、自国の発展のために生かす上で核となる人材である。中には、研修参加後、数年で自国政府の局長、次官、さらに閣僚にまでなった実績もある。他にも開発途上国のビジネス界や学術界などからも参加している。
(注4)兵庫はシングル92室、ツイン4室。大阪はシングル280室、ツイン10室。
(注5) 2011年3月(2010年度)に発生した東日本大震災の影響もあり、比較対象はその前年の2009年度とした。
【削除された「第3項」】
当時の検討を振り返ってみます。
2007年4月、JICAと兵庫県は、開発途上地域等に対する国際防災協力を一層推進することを目的として、DRLC(国際防災研修センター)を共同して設立(注6)し、運営に関する覚書を締結しました。この覚書の有効期限が3年間だったため、2010年にはその更新を行う必要がありました。その際JICAから兵庫県側に示された更新案の第2条「有効期限」には新たに第3項として以下のような条項が加えられていました。
「JICA兵庫国際センターが廃止されることとなった場合は、実際に廃止される時点を以って本覚書の有効期限が満了するものとする」。
当時、センター統廃合の方向性が不透明な状況だったため、第2条「有効期限」に関しより柔軟な対応が取れるように、というのが案として加えた理由でした。
これに対して兵庫県側から猛反発がありました。「『JICA兵庫の廃止』という字句を本覚書に記すことは絶対に受け入れられない」というものです。結局、双方話し合った結果、この「第3項」は削除されました。「事業仕分け」の指摘を受け、大阪と兵庫のどちらかが閉鎖されるということが現実味を帯びていく中、JICA内部ではJICA兵庫の閉鎖やむなしとの見立てが強かったようですが、兵庫県側では真っ向から反対していたのです。神戸に関西センターが残った理由。それは当時の兵庫県の方たちの熱い思いとその行動力に拠るところが大きかったと思います。
(注6) 「JICA関西センター物語(11)」参照。
【兵庫県民の思い】
兵庫県の元副知事で、JICA大阪と兵庫の統合当時、兵庫県国際交流協会の理事長を務められていた齋藤富雄氏(注7)に当時のお話を伺いました。
「JICAに『大阪よりも兵庫の方がいい』という考えを持ってもらうのは大変でしたが、最後は理解してくれました。
兵庫県は地元経済界や地元の人たちも含めて連携がよかった。商工会議所会頭に働きかけて、それがのちに賛同された方たちからの『要望書』という形で取りまとめられることになりました」。
そこまでしてJICAが兵庫県に残るように行動してくださったのはなぜでしょうか。引き続き齋藤氏のお話です。
「兵庫県民の思いを実現してくれるのがJICAだからです。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた私たちは世界中の人たちから多くの温かい支援をいただきました。『その恩返しをしたい』というのは私たち県民の強い願いです。我々ができる恩返しとは、震災を通じて得られた防災の教訓を発信すること、人材を育成すること、そして国際貢献です。もしJICAが抜けてしまったら、その国際貢献が困難になってしまいます。我々には知識はあっても実際に相手国に届ける手段がありません。JICAと連携することで我々が持っている知識・ノウハウ・教訓をJICAと一緒に世界に伝えることができるのです」。
兵庫県内にJICAが存続するよう尽力してくださったのは県職員の方々だけではありません。2009年12月10日。地元新聞に「JICA兵庫 存続を」という見出しの記事が掲載されました。阪神・淡路大震災の被災地で活動するNPOやNGOなど27団体がJICA兵庫の存続を求めて要望書を当時の与党、民主党の県の連合会に提出したのです。
次回はこの時に活動された方々のお話をお伝えいたします。
JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦
(注7) 関西国際大学名誉教授。兵庫県立大学客員教授。阪神・淡路大震災時は兵庫県知事公室次長兼秘書課長。全国で初めて新設された県の防災監などを歴任。著書に「『防災・危機管理』実践の勘どころ」など。2011年にJICA国際協力感謝賞(現JICA理事長賞)受賞。
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