JICA関西センター物語(12) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「大阪国際センターが受けた地元の協力」

2023年11月13日

現在の「JICA関西センター」は、今から約11年前の2012年4月、当時の「兵庫国際センター」と「大阪国際センター」が統合し、「関西国際センター」として誕生しました(2018年7月に現在の名称に改称)。兵庫国際センターの前身となる「兵庫インターナショナルセンター」が開設1されたのは半世紀前の1973年ですが、大阪国際センターの前身の設立は更にその約6年前の1967年4月のことでした。
https://www.jica.go.jp/Resource/kansai/office/ku57pq000005l5ks-att/history.pdf

今回はその設立当時の様子をお伝えします。


1 1973年8月開所。JICA関西センター物語(6)参照。

旧大阪センターの開設

2012年4月の統合まで、大阪国際センターは大阪府茨木市の西豊川町にありました。1967年4月に茨木市南春日丘2に開設されたOTCA3大阪国際研修センター(以下、「旧大阪センター」といいます。)を前身として、1994年4月に移転して新設されたものです。


2 当時の地名は「山田別所」。
3 特殊法人 海外技術協力事業団:「Overseas Technical Cooperation Agency」の略。1962年6月創設。1974年8月に海外移住事業団と統合して国際協力事業団(現独立行政法人 国際協力機構)設立。

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(写真:旧大阪センターのパンフレット表紙。研修員宿泊用の部屋が66室(シングル62、ツイン4)あった。JICA図書館に保存されていたデータより引用。)

旧大阪センター開設時の当時のパンフレットには、センター設立の背景や概要が次のように記載されています。

「アジア、中近東、アフリカ、中南米等の開発途上にある諸国より技術研修員4の受入事業を開始した1954年(昭和29年)以来、年々その規模は拡大の一途をたどり(中略)研修業種も非常に広範多岐に亘り文字通り稲作から原子力研究までに及んでいる。(中略)海外技術協力事業団は研修上極めて重要な位置を占める関西地方に、地元大阪府始め関係諸機関の御理解と御協力を頂き京阪神工業地帯の中心大阪府茨木市に大阪国際研修センターを建設することとなった。同センターは1966年(昭和41年)に着工され1年1ヶ月の日数と約1億7,000万円の建設費をもって1967年3月完成し、関西地方における研修員受入事業の本拠地となった5」。


4 開発途上国から日本に来てJICAの研修事業に参加する方を指す。研修期間は数週間から日本の大学院での学位取得を目指す最長3年まで多様。参加者の大宗は各国政府の行政官で、研修事業を通じて知見・技術を共有し、自国の発展のために生かす上で核となる人材である。中には、研修参加後、数年で自国政府の局長、次官、中には閣僚にまでなった実績もある。他にも開発途上国のビジネスや学術界の中堅リーダーなどが参加している。
5 開所式は1967年5月22日に開催された。当時の新聞には、「スマートな鉄筋六階建て」、また、「裏は自然の池形を利用した日本庭園、前には池もあって、屋上からは万国博の用地も見渡せるなど、すばらしい立地条件に恵まれている」と記載され、施設、環境の良さが謳われている。

大阪の自治体の協力

この大阪府や関係諸機関の協力とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。それについては、1977年5月に発行された「大阪国際研修センター10年誌」に記載されています。初代館長(センター長)だった保里久保氏6の文章です。

「(センター建設にあたっては)幸いなことに、国の資金が予算化されると共に、大阪府、および大阪市の資金援助が得られることになりましたので、センターの建設が実現することとなりました。ところが適当な用地が容易に得られず、用地探しに苦労して居りましたところ、たまたま茨木市の御協力で、現在の用地を買収することができました。
(中略)ところが建築に入って見ますと風致地区としての建築制限が極めてきびしく、いろいろと技術的な問題がありました。先ず高さの制限が発生し、そのため当初100床の建物を考えて居りましたが、70床に止めざるをえませんでした。その他に水道管敷設の問題、下水処理の問題、都市ガス等の問題等々が山積し、これらととりくむことになりましたが、大阪府建築部及茨木市当局の指導と援助を得てどうにか現在のように立派な白亜のセンターを完成させることが出来ました」。

兵庫インターナショナルセンターは兵庫県や神戸市の協力を得て設立されましたが(JICA関西センター物語(2)参照)、旧大阪センターも同様の協力を地元からいただき誕生していたのです。


6 本部国内事業部長として館長も兼務していた。

環境に恵まれた施設

保里氏の文章からは当時の周囲の様子を窺い知ることができます。

「用地の位置は千里団地と茨木カントリークラブの中間の丘陵地帯にある小さな丘です。この場所は万国博7の開催以来、急速に大阪市と接続する立派な道路が開通し、国鉄8は茨木駅に急行を止めさせ、また近隣の都市化が進み大変便利な所になりましたが、建設の当時は大阪市の東北(鬼門)にあたるへんぴな所でした。併しこの辺り一帯は風致地区となって居り、静かな風光明媚な研修の場所として、また研修員のいこいの場所として最適な場所と思われました。
(中略)センターからの眺望は殊に大きな池9をのぞみ、全く美しいものがあります。また天気のよい日には遠く六甲山も見ることが出来ます。敷地内には生駒山で産出した大きな石40数個をつかった小山と小山から湧き出す水を使った小池を中心とした庭園を配して、出来ばえはまずまずのものと思って居ります」。

周辺の環境については、保里氏のあとに館長となった吉田春茂氏も10年誌の中に記載しています。

「(センターが開館した)当時は万博工事が始まる直前でもあり、まだ裏山には藪うぐいすがわんさと居って毎朝うぐいすの声で目覚める10といった優雅な毎日でした。又桜花の頃ともなれば屋上から見下ろすと館が一面桜花に包まれると云った感じで全く研修所にふさわしい日本一のセンターであると私共職員一同大いに張切ったものです」。


7 1970年の日本万国博覧会(大阪万博)。
8 日本国有鉄道。現JR西日本。
9 1828年に築造された灌漑用のため池。名称は「松沢池」。
10 住宅事情のため赴任当初はセンターで起居していた館長もいた。

地元の人たちの理解を得るために

日本人が自由に海外へ旅行できるようになったのは1964年。また日本を訪れる外国人の数も少なく11、日本人がまだ外国の人と接することがほとんどなかった時代です。吉田氏は地元の方々との関係づくりに配慮していたようです。

「当時の悩みは如何に地元の方々に馴染んでもらえるかということ。春日丘は当時人家も少なく高級住宅地でしたから、そこに外国人用の宿泊施設が出来て果して風紀上大丈夫かと云ったことが地元のご家庭では相当議論されたと聞きました。そのため私共はセンターの行事の度毎に地元の方々をセンターにご招待して館内見学や行事参加に出来るだけの努力をいたしました。
(中略)地元有力者の方々から協力が得られ、心配は杞憂に終り、まずまず無事に開館が出来たと云えましょう」。

本号を執筆するにあたり、センターの跡地を訪問してみました。移転してからすでに30年近い時が流れています。近所の方何人かにお声がけしましたが、かつてここに海外から多くの研修員が日本に学ぶために集っていたことを知る人はほとんどいませんでした。
跡地に面する道路の坂道を少し登ったところに瓦屋根の民家がありました。中からお話声が聞こえてきます。思い切ってチャイムを押すと、年配の方が対応してくださいました。懐かしそうに笑顔を浮かべ、「よく覚えていますよ」とおっしゃり、当時のことをお話してくださいました。

「(旧大阪センターが)西豊川町に移転されるまで、このあたりは外国の人の姿をよく見かけました。アジアの人が多かったです。公園では花見や盆踊り大会などが開催され、近所の人がたくさん参加していてとてもにぎやかでした。私もまだ幼かった子どもたちを連れて、家族で外国の人との交流を楽しんでいました。みんな優しい人たちばかりでした。センターが移転してしまい、とても寂しくなりました」。

センターが西豊川町に移転したのは1994年4月のことです。次回はこの移転後のことについてお届します。


11 センターの建設が始まった1966年の訪日外客数は432,937人(コロナ前の2019年は31,882,049人)。出典:日本政府観光局(JNTO)

【画像】

(写真:旧大阪センターの跡地。現在は、右奥に見える茨木市沢池多世代交流センターの多目的広場(茨木市所有)となっている。2023年10月、撮影筆者)

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦