第59回海外日系人大会での理事長記念講演【於:ハワイ ホノルル市】

まず初めに、第59回、海外日系人大会の開催をこころよりお喜び申し上げます。
150年前、日本人の集団移住最初の地としてこられたここハワイに、世界15か国から300名近い方々がお集まりになられたこと、大変うれしく思っております。

1.二宮さん、フジタさんとの出会い

私の在外日系人の方との出会いは、40数年前、1973年にさかのぼります。私は東大の大学院にいたのですが、ある先生に呼ばれて、ブラジルから二人の留学生がやってくるので、しっかりつきあってほしいと言われました。

彼らは、ブラジル政府が日本専門家を養成しようと考えて派遣した若者でした。

一人は外交官の藤田さん(エドムンド・ススム・フジタさん)、もう一人は学者の卵で二宮正人さんでした。私はフジタさんの日本語チューターをつとめました。

ブラジルでは外交官の社会的地位がとても高いのです。それまで、お医者さんなどは多かったのですが、外交官にほとんどなれなかったのです。そこを抜群の成績で突破してこられたのが藤田さんでした。その後、昇進してインドネシアと韓国の大使を務められましたが、数年前に不幸にして亡くなられました。

もう一人が二宮さんです。東大の大学院の博士論文というのは、たぶん、当時は世界一難しかったのです。というのも、日本法の基礎になったドイツ、フランス、英米の法律をきちんと勉強して、それから日本の法律を勉強してオリジナリティを出さなくてはならない。それまで韓国、台湾など、漢字圏で博士論文を書いた人はいましたが、それ以外にはいなかった。二宮さんはその第一号、大秀才が血のにじむような努力をされてできたことです。

それから、単にサンパウロ大学教授、弁護士であるだけでなく、日本とブラジルとの間の問題で、二宮さんに世話にならなかった人はないと言ってよいほど、活躍してこられた。

まことに立派です。しかし、あとに続く人がもっとたくさん出てほしいと思っています。もっとたくさん出てもらえるように我々も努力したいと考えています。

2.清沢のこと

もう1つ、在外邦人との関わりは、1987年に清沢洌という人の伝記を書いたことです。清沢という人は、戦前の外交評論家の中で、最も優れた人で、鋭く、リアルな言論で昭和期の日本の外交を批判し続けた人です。

清沢は1905年に16歳でアメリカに渡っています。彼は家が貧しくて進学できず、近所のキリスト教の小さな塾で学びました。そこでキリスト教の強い影響を受け、アメリカに渡ってもっと信仰の道を極めたい、またもっと勉強したい、そういうわけで1905年にシアトルに行きました。

清沢がアメリカに渡ったのは、ちょうど、アメリカ西海岸で日本人移民排斥運動が高まっていたころです。清沢も大変な苦労をしながら、学校へ行ったのですが、シアトルの邦字紙で働くようになり、そこで文筆を認められ、評判になり、やがて多くの日本の読者のために書きたいと考えて、日本に帰ります。1918年のことです。

その後、清沢は新聞記者となり、評論家となり、朝鮮や満州にも行くようになりました。そして、朝鮮や満州における日本人の活動の基礎があまり盤石ではないと気づきます。アメリカでは日本人が日本政府からの支援もなしによくやっています。定着して、活動している。それに比べ、朝鮮や満州の日本人は、日本政府の支持なしには危ういと考えます。

こういう視点から、清沢は1930年代の日本の大陸膨張を批判し続けたのです。その原点は、政府に頼ることなく、自らの力で道を切り開いていった移民の姿でした。

なお、私はこうした研究から、邦字紙の重要性を痛感するようになりました。これまで日本語の新聞の刊行を続けてこられた方々に、深い敬意を表したいと思います。

3.明治維新の位置づけと日本人移民

さて、本年2018年は明治150周年。そして、1868年(明治元年)、サイオト号で153人の日本人が初めて、ここハワイに集団移住した年からも150周年となります。

本大会の総合テーマも「世界の日系レガシーを未来の礎に-ハワイ元年者150周年を祝って-」ですので、初めて移住された地であるハワイで大いに祝いたいと思うところです。

明治という時代が終わった直後、多くの人が明治とはどういう時代だったかを論じました。その中で、後の総理大臣となる26歳の石橋湛山は、「明治の最大の事業は、日清、日露といった戦争の勝利や植民地の拡大ではなく、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革を行ったことにある」と述べています。私も強く共感するところです。

偉大だったのは戦争での勝利ではなく、維新からわずか30年余りで勝利できるような国力を蓄えたことです。

明治政府は1871年、王政復古からわずか3年で討幕の主力であった薩摩長州を含むすべての藩を廃止し、その後、武士そのものも廃止します。1885年44歳の伊藤博文がわが国の初代総理大臣となります。足軽出身であった伊藤博文は江戸時代には政治について発言さえ許されない身分でした。

つまり、維新から内閣制度の創設に至る変革は、積極的に国を開き、西洋諸国と対峙するために、国民すべてのエネルギーを動員するべく、既得権益を持つ特権層を打破した民主化革命であり、人材登用革命であったと言えます。

経済、社会等の分野での改革も著しいものがありました。職業選択が自由とされ、貿易も飛躍的な自由化で拡大しました。身分制度を超えた義務教育制度も導入されました。

明治の偉大さは、開国と民主的な変革によって、国民の自由なエネルギーの発揮を可能ならしめたことにあります。

国民のエネルギーの発揮という意味では、まさにハワイを嚆矢とし北米、中南米、アジアと新しい文明社会への建設を日本人移民の先達が他国からの移民の方々と協働で担ったということもその一つだと言えると思います。

横浜にある私どもの海外移住資料館やブラジル日本移民史料館の基本理念は「われら新世界に参加す」です。日本人移住者が新しい文明の形成に重要な役割を果たした参加者であると文明史的な意味づけを行っております。

これは国立民族学博物館の館長であられた梅棹忠夫氏がブラジルにおけるドイツ移民150周年の基本理念として掲げられた「われらはこの地を信じてきた」と比較し、日本人移民の意味づけをおこなったわけです。

明治の国民の自由なエネルギーの発露として、日本人移民は、新天地で新たな文明形成に参画したと言えるかと思います。

移住150年、もちろん、ご存知のとおり、想像だにつかないような苦労をされてきたこともありました。時にはマラリアなどの病気や自然災害といった厳しい環境に翻弄されました。

かつて、コロラドにある日本人墓地を訪れたことがあります。
ある墓碑には、埋葬されている日本人の方のみならず、その御両親たちの出自、出身地が書かれていて、ご一家が広島を出て太平洋を渡り、ハワイに来て、アメリカ本土に渡り、西海岸に立派に定着されたものの、戦争でコロラド州アマチ収容所に入れられ、戦後解放されたものの、そのままコロラドを終焉の地としたことがわかりました。長い旅路を御苦労されたんだな、と感慨にふけったことでした。

しかしながら、多くの移住者や日系人の皆様は困難を乗り越えられました。そして移住先国の発展に貢献し、大きな信頼を得てこられました。その結果として日本のことを理解し、親しみをもっていただけるような親日的な社会を醸成されるに至ったことに、日本人として誇りに思っています。

4.日系人と日本

150年の時を経て、全世界で約360万人の日系人がおられます。

150年の間には、ハワイ生まれの日系二世、米国日系人初の上下両院議員となり、50年近く上院議員を勤められていたダニエル・ケン・イノウエ議員を始めとして各国の政界、学界、企業、スポーツ界、芸能界など様々な分野で人材を輩出し、今現在も多くの方々が活躍されておられます。

先の太平洋戦争では、米国や中南米の国では日本人、日系人の方々が強制収容所に隔離されました。日本では書籍や食料品など、赤十字社を通じて支援致しました。

反対に1945年敗戦後に、在米日系人や中南米の日系人の皆様が中心になって祖国日本を心配して、粉ミルクなどの食料品や衣料等を「ララ物資」として送ってくださいました。

このことに感謝する意味を込めて開催されたのが1957年5月国際連合加盟記念海外日系人親睦大会、即ち第一回海外日系人大会でありました。

そして、2011年3月11日、未曽有の大惨事となった東日本大震災。この時もまた、多くの国からの支援はもちろんのこと、日系社会の皆様からも金銭、物品等の支援を受け、今なおその支援は続いています。

遠くにいても、どうしているかなと「気にかける」、「気にかけられる」、互いのこころをつなげる、これはまさに国際協力の原点であり、こうした原点を日系人の皆様と一緒に紡いできたということは、大変誇らしいと感じています。

私は、昨年2月、アルゼンチン、ブラジルを訪問し日系社会のみなさんと意見交換をさせていただきました。

特にブラジルでは、1908年第一回移民船である笠戸丸が到着したサントス港や同地にある老人ホームを訪れ入居者の方々のご苦労を聞かせていただきました。

アマゾン地域にあるトメアス移住地も訪問し、日本とは異なる熱帯の地で農業協同組合を中心に日系人の方々が力を合わせて町を発展させてきた姿を目に焼き付けたところです。

5.JICAの日系人施策の展望

さて、私ども独立行政法人国際協力機構、JICAは、前身の一つが政府や各都道府県と一緒になって中南米への戦後移住を促進して参りました。

現在では、日系社会支援事業として、第一に高齢者医療や福祉対策、第二に日本語教育を中心とした日系人の人材育成のための支援、第三に知識普及事業として、海外移住資料館を拠点に、海外移住・日系人社会に関する国民への啓発・広報、学術的研究など、海外移住に関する知識を普及する業務を行っております。

例えば、日系社会の皆様からのたくさん要請がある「日本語教師」、「看護師」、「老人ホームでの介護職」、「野球、柔道、バレーボールといったスポーツ」よさこいソーラン、着付け、琴演奏指導といった「日本文化」など様々な分野で日本人をボランティアとして派遣したり、あるいは逆に日本に受け入れて学んでもらっています。

また、中学・高校・大学生の日系の方々を日本へ呼び、一か月間程度、それぞれ日本の中学・高校・大学生生活を体験してもらったり、大学院生レベルでは留学の機会を提供しています。

研修や留学を終え、それぞれの母国で活躍したり、中にはJICAがブラジルやメキシコなどの国と一緒になって他の国を支援する時の日系人専門家として活躍する場合も出てきています。

また、横浜の海外移住資料館では、世界中に移住された日本人や日系人の歴史や暮らしを知ってもらえるように収集資料の展示やメールマガジンなどの対外発信を行ったり、移住資料館で開催した企画展示を再度各県で巡回展示し日本全国の方々に移住について関心をもってもらおうとしているところです。

最近では横浜で開催した福岡移民に関する企画展を、引き続いて福岡県内の博物館やメキシコで開催された県人大会でも同様に展示し、福岡県人の雄飛した歴史を学んでもらいました。

2014年、2016年と安倍総理が中南米を歴訪され、日系社会との連携強化を強く打ち出されました。2017年には、外務大臣の下に「中南米日系社会との連携に関する有識者懇談会」が開催され、学会の先生方、全国知事会会長、日本経済団体連合会の方と私も委員の一人として議論に参加致しました。こうした議論を踏まえ、JICAでは従来から実施している事業をより魅力的なものにしていくとともに、日系社会との絆を一層深めることはもとより、日系社会を核として、非日系人の方も含めて日本に関心を持っていただく方、親日派、知日派の方々を増やしていきたいと考えております。

具体的に次のようなことを考えています。

第一に、各国日系社会の資料館のみなさまと私共のJICA海外移住資料館のネットワークの強化です。多くの方々がこれらの資料にアクセスできるよう努めます。

第二は、日本の近現代の開発と発展の歴史に関する授業科目の開設を大学とJICAが連繋して行い、こうしたコンテンツを広く英語やスペイン語といった言語で世界各地域に発信していくことです。

加えて、海外展開にあたっての重要なパートナーが各国の現状を知る日系企業の皆様です。日本の企業と各地の日系企業の皆様との仲立ちをする、ネットワークのお手伝いをするということもJICAではより一層促していきます。

6.最後に

2017年、JICAは「信頼で世界をつなぐ」をキーワードに、新たなビジョンを定めました。信頼は、日本の開発協力の根幹をなす概念です。
常に相手の立場にたって共に考える姿勢で臨む協力により、国内外の幅広いパートナーとの信頼を育む。人や、国、企業が持つ、さまざまな可能性を引き出し、人々が明るい未来を信じ多様な可能性を追求できる、自由で平和かつ豊かな世界を築いていく。
そして、人びとや国同士が信頼で結ばれる世界を作り上げていくことを、JICAは目指していきます。

各国の日系人のみなさんが何世代にもわたって信頼を築き上げてきたように、JICAも信頼で世界をつないでいきたいと考えています。

そのための大切なパートナーが日系社会のみなさまです。

ところで、日本に対する高い評価の例として、最近、面白い事例があります。

2年前、エジプトの大統領が来られて、日本式の小学校を200校作りたいと言われました。私は、「大丈夫ですか、日本では子供達が学校を掃除するのですよ」と言ったところ、それがいいんだ、それをやりたい、と言われました。

今年、エジプトに行ったら、もう実験校が始まっていて、そこではクラス会や、音楽の授業や、体育の授業、家庭科の授業が、立派に運営されていました。手洗いには石鹸があり、子供達が廊下を掃除しています。大統領に感心したと申し上げたら、そうでしょう、ぜひ成功させたい、ついては校長先生に日本人が欲しい、200人出してほしいと言われました。いや、やはりエジプト人がいいのではないでしょうか、といって、帰ってきたのですが、日本の学校のしつけが大変評価されているのは嬉しいことです。

1905年、日本が日露戦争に勝利したとき、元老の山県有朋は、これは西洋文明をよく学んだ日本が、そうでないロシアに勝っただけで、決して日本の本質的優位を証明するものではないとして、おごりを戒め、さらに努力することが必要だと述べました。しかし日本は日露戦争の勝利以後、自信過剰と驕りに陥りました。その帰結が敗戦でした。

日本は1980年代の末、経済の絶頂に到達し、もう他国に学ぶものはないという人も少なくありませんでした。そのような驕りから、経済の停滞が始まったわけです。現在、そこから抜け出しつつありますが、まだ完全に抜け出したわけではありません。

しかし、エジプト大統領が感嘆したような日本の基礎的な力は健在です。いまこそ150年前の明治維新を思い出し、もう一度ダイナミックな歩みを始めるときです。そして、海外の皆様に、やっぱりわれわれの祖国はすごいと、いつも言われるようにならなければなりません。明治維新150年、日本人移民150年の今、かつての活力を思い出して、皆様の期待に応えられるよう、全力を尽くさなければならないと考えております。

以上