ベトナム共産党中央組織委員会における理事長講演「明治維新と日本の近代化」【於:ベトナム ハノイ市】

JICAの北岡理事長は2018年9月14日、ベトナム共産党中央組織委員会幹部や地方省・郡の当委員会幹部2千人超に向けて、明治維新期の日本の人材育成政策について講演を行いました。講演の概要は以下のとおりです。

まえおき:日本とベトナム

私は日本の古い都である奈良の出身であり、奈良には東大寺という、754年にできた大きなお寺があります。このお寺ができた時に中国、インド、そしてベトナムから偉いお坊さんを招きました。当時中国とインドは超大国、それと並んでベトナムから高僧が招かれたというのは、日本とベトナムの関係が大変長く深いということを表しているように思います。

さて、ずっと時代を飛んで、日本は1905年に日露戦争で勝利しました。日本が当時世界最強の陸軍国と思われていたロシアに勝ったということは大変な驚きをもって受け止められました。そしてこの日本の勝利は、当時植民地支配に苦しんでいた多くの国々を勇気づけました。インドのネルー、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ等、アジア、アフリカの指導者の多くは、子供の頃、日本の日露戦争における勝利を知り、発奮したのです。ベトナムでも関心を持った人がいました。それがファン・ボイ・チャウであり、彼は日本と手を組んでフランスから独立しようと考えました。そして来日し、日本に武器の援助をしてほしいと依頼しました。しかし、この試みは上手くいきませんでした。当時日本は日仏協約を締結しており、フランスはこの協約の中で、フランスの植民地における独立運動を支援しないということを日本に約束させていたのです。従って当時の日本は、ベトナムの民衆の声に応える力を持ちませんでした。同時に日本は、ファン・ボイ・チャウ氏に対し、一つ提案をしています。ファン・ボイ・チャウ氏が武器援助を求めたのに対し、当時日本で彼と会った人は、武器は後のことであり、まずは教育を普及させ、国民の知力を上げるのが先だとお話ししました。

一般的に申し上げますと、日本とベトナムの共通点は、中華文明圏の端にあるということ。両国とも、中国から影響を受けているものの、中国に圧倒されたくない、自立するのだという気持ちが強い。これが日本とベトナムに共通するところです。こうした超大国から学びながらも負けないという気持ちが、超大国と戦って勝った背景にあるのです。

はじめに:明治維新とは何か

今日明治維新のお話をするのは、今年が明治維新から150周年であるというのが理由の一つです。今から150年前、1868年に大きな政治的変化が起こりました。当時は王政復古と呼んでいました。それまでは徳川氏が支配していた時代が260年続いており、徳川氏の時代が終わるだけでも大変なことですが、それだけではなく、700年続いた武士、侍の時代が終わることでもありました。そして、古代の支配者であった天皇の時代に戻すことを口実として、新しい時代を始めました。ここから日本の急速な近代化が始まり、この王政復古から日露戦争における日本の勝利までわずか37年しか経過しておりません。

当時主導して徳川氏を倒したのは、薩摩藩と長州藩です。二つの地方政権が中央政権を打倒したのです。ところが、それだけであったらただの政権交代ですが、新政府はそのわずか3年後にこの藩というものをなくしてしまいました。なぜなら、イギリス、フランスといった国々に対抗するためには、国を一つにまとめなくてはならないと考えたからです。それだけではなく、薩摩も長州も、これをリードしているのは侍でしたが、この侍もやめてしまいました。江戸時代は、士農工商という4つの身分に分かれていましたが、国民が身分で分かれていては、西欧に対抗できないと考えたからです。これは明治維新からわずか9年後でありました。

その後、新政府は着実に政治的な近代化を進め、1885年、近代的な内閣制度を作りました。当時総理大臣になった伊藤博文という人は、侍の一番下の身分出身であり、江戸時代であればとてもそのような地位には就くことができない人でした。つまり身分に関わらず、能力がある人は上に行けるという仕組みができた訳です。それから1889年、明治22年に憲法を作っています。日本は西欧以外で憲法ができた事実上最初の国です。幕末からこういった政治制度が整うまで当然流血を招く事態がありましたが、亡くなった人の数は3万数千人。これは非常に少ない数です。フランス革命は、ナポレオン戦争まで含めると数百万人、ロシア革命も、スターリン体制下の粛清まで含めると数千万人が亡くなっています。どうして明治維新の場合は犠牲者がずっと少なかったのでしょうか。これは明治維新を考える上で非常に重要な点です。東南アジアには西欧列強が先に来て、多くの国々が植民地になってしまいましたが、日本は幸いと言いますか、列強の来訪が東南アジア各国の後だったため、準備する時間がありました。勿論国内でも争いはありましたが、争っていては対抗できないということで、藩を廃止し、身分制を廃止し、新しい国を作りました。

1.江戸時代の遺産

こういった歴史をお話しする際、その前の江戸時代についてご説明する必要があります。江戸時代の政治のユニークな点は、権威と権力が分かれていたことです。権威は京都の天皇にあり、権力は武士が持っていました。武士の時代はその前にも何代かありましたが、1600年頃から今の東京に拠点を持つ徳川氏が支配するようになりました。江戸時代、地方にはおよそ300の領地があり、そこに300人の領主、すなわち大名がいました。こういった体制を政治学もしくは歴史学では封建制と呼びますが、江戸時代の体制は将軍の力が非常に強い封建制でした。大名には、参勤交代といって、1年おきに東京に住み、行列をなして国に帰って、1年地方に住むということを命じており、これを行うためには非常にお金がかかっていました。これは幕府が大名を統制するための手段でした。一方で、大名も地元においては権力が強く、立派なお城を建て、城の周りに住むよう侍に命じていました。ここで生まれたのが、消費経済です。侍は生産活動を行わずに消費し、生産者は地方に住むという、城下町が誕生しました。もう一つ江戸時代で重要なのは鎖国をしていたことです。鎖国といっても対外関係がゼロだったということではなく、非常に限られてはいるものの、朝鮮、貿易については清国、オランダと関係を継続していました。オランダについては、長崎に出島という隔離するための島を作り、その中でのみ貿易が許可されていました。

260年の間、これは大変驚くべきことですが、日本はほとんど戦争がなく、非常に平和でした。平和になった結果どうなったかというと、日本は大変豊かになりました。江戸時代の前、日本では1600年に関ヶ原の戦いという戦争がありましたが、このような戦争が起こり、一番困るのは庶民、特に農民です。しかし戦争がなくなり、農民が安心して生産に取り組むことができるようになった結果、米の生産量が増えました。その証拠に、日本の人口は1600万人だったのが、わずか120年のうちに3100万人(1721年)、約2倍以上になりました。しかし、同時に気を付けなければならないのは、1721年以降150年にわたり人口がほとんど増えなかったということです。

平和になった結果、商業も発達しました。大阪に市場ができ、全国の物品がここで取引されました。先ほど述べた城下町の発展もありました。参勤交代も、元来は大名統制の手段でしたが、その副産物として、交通が盛んになり、江戸の文化がすぐに地方に伝播するようになり、日本全体に共通の文化が生まれるようになりました。これは全く当初は予期されていなかったものでした。また、識字率が向上しました。江戸時代にはエリート階級である侍のみならず、庶民も読み書きを習うようになりました。寺子屋という名前で知られていますが、お寺に付属している小さな学校で、皆読み書きを習いました。江戸時代の初めは、武士の中でも字を読めない人は大勢いましたが、江戸時代の後半には、成人男性の約半分は読み書きができるようになったと言われています。このように、小さな頃から、読み書きと簡単な算数を教えていたのです。また、文化が大いに発展し、成熟しました。日本の文化で世界に知られている歌舞伎や浮世絵は、この時代に庶民から生まれたものです。その中で当然学問も発展し、徐々に日本は一つだという意識も生まれてきました。それまでは自らのことを薩摩の人間、長州の人間など、「藩」の人間であると認識していた人々の間に、日本は一つだという意識が高まってきた訳です。もう一つ良いところを言っておきますと、先ほど交通が発達したと申し上げましたが、江戸時代には、東京から400km先の伊勢神宮、500km先の大阪まで女性が一人で旅行することができました。このようなことができる国は当時他にはありませんでした。ヨーロッパでは強盗が出るため旅行というのは大変危険なものでしたが、日本では女性が一人で旅行できるような、平和な時代があったのです。

ところがこの時代は良いことばかりではなく、悪いこともあったわけです。米を経済の軸としていたために一定の発展の後に停滞がありました。米のみに頼り、それ以外の産業が十分に発展しなかった。また、商業、工業は発展したけれども、ヨーロッパのように、これに税金をかけるということが日本では起こらなかったのです。それから、学問の自由が十分ではありませんでした。当時は儒学が正しい学問とされており、それ以外の学問は禁止されていました。そして政治的に非常に不自由でした。政府を批判することができなかった上、政治に参加するのは武士の中でもほんの一握りの人たちだけでした。また、軍事技術が非常に停滞しました。実は、1600年に非常に大きな戦争があったと言いましたけれども、その頃から江戸時代の後半まで、武器の水準はほとんど変わっていません。200数十年武器が変わらないということがあり得るでしょうか。つまり、これは非常に弱くなったということです。17世紀の初めの日本は、世界最大の軍事大国でした。日本にあった鉄砲の数を推計すると、世界のどこよりも多かったのです。ところが19世紀の半ばには日本の軍事技術は非常に遅れた状態となったのみならず、鎖国に伴い当然航海技術も遅れました。ご案内のように、江戸時代の初期、あるいはその前には日本の船はベトナムまで来ることができたわけです。東南アジアで貿易をしていたわけです。ところが、外に行くことを禁止されたせいで、日本は国を越えた航海をしなくなりました。それで非常な停滞があったのです。今日日本では江戸時代は良かったという人もいるのですが、江戸時代のマイナスの面も我々は直視しなくてはならないと思っています。

その中で非常に大きな意味を持ったのは、小さいけれども、海外に窓口が開いていたということです。それは医学です。大阪に緒方洪庵という蘭方医の適塾という塾がありました。ここで学んだ人の中には、偉い人がいっぱいいます。例えば橋本佐内は、江戸時代の大名の活動に非常に大きな影響を与えた人です。それから大村益次郎は、長州藩の軍事指導者として天才的な働きをした人です。大村という人は元医者であり、医学を学ぶために緒方先生の塾に入って、オランダ語を勉強して、書物のみの理解から蒸気船を作りました。この大村が後に日本の徴兵制を作った元祖です。彼は武士というのは戦争の役には立たないということを痛感していました。なぜなら、武士というのは身分でできています。戦争は能力主義を以って組織された軍隊でなくてはできないという考えの下、身分制を止めて、能力主義の軍隊を作ろうとした人です。それから福沢諭吉は、日本に行ったことがある人はご存じかもしれませんが、1万円札の人です。彼は日本の近代化における知的影響力という点では第一の人物です。同時に慶應義塾大学を作った人でもあります。私も大変尊敬する人であり、本も書いています。こうした江戸末期から明治の初めまで大活躍した3人とも、緒方先生の適塾で学んだ人であり、塾頭を務めました。いかに学問の力が大きいかということを、ここでも示していると思います。

幕末に何故長州、薩摩が勝ったかということは、ここでは詳しく触れませんが、簡単に言えば、江戸幕府は強大だが、全て身分制度でできており、身分の高い人が司令官、低い人が兵卒だったが、それではだめだということです。薩摩・長州はこれを変えて、志のある人は皆集まれと言って、長州は武士ではない人材から成る軍隊も作っています。そこに西欧の進んだ武器を買ってきて武装させて、これで幕府を打ち破りました。ですから、この軍事革命と、もう一つは身分の革命があり、これを指導したのが、天才的な知的エリートであったのです。

2.維新政権の確立

さて、こうやって新しい政府が1868年にできたのですが、この新しい政府は早速そこで「五箇条のご誓文」という、天皇自らこれからこういう方針で政治を行うという方針を公表しました。そのうちの特に二つが重要です。一つ目は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(第一箇条)、つまり、みんなで議論をして決めようということです。江戸時代はほんの少数の幕府の中心の人が全て決め、それをうっかり批判すると死刑になりました。二つ目は「知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし」(第五箇条)、つまり優れた知識を外国から取り入れていこうということです。これは非常に重要な決定であり、なぜかというと薩摩や長州はどちらかというと、排外主義、攘夷、すなわち外国人は嫌いというグループだと思われていたわけですが、ここで大きく方針を変えてしまったわけです。さらに、彼らが天皇の権威でもって実施したのが、廃藩置県、すなわち300あった藩を300の県にして大名の代わりに中央が任命する役人を配置することでした。つまり、それまでは世襲のリーダーが地方にいたわけですが、中央政府が任命する役人が地方にいくことになりました。これができたのは1871年の8月なのですが、驚くべきことにさらにそこからたった4ヶ月のうちに、岩倉使節団が海外に出たことです。つまり、廃藩置県というのは何百年もその地方のリーダーだった支配者を辞めさせて東京に出てこさせる大革命だったわけですが、それによる国内の動揺が収まらないうちに、政府要人の多くが岩倉使節団で世界を見に行ったわけです。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允は当時の政府の中枢であったわけですが、当時の中枢の半分ぐらいの人間が、最長1年10ヶ月も外遊に行ったのです。これは喩えて言えば、ベトナム共産党の序列10番目ぐらいまでのうち5人ぐらいが海外に出て行ったという感じです。面白いことに、この使節団は留学生も伴ったわけですが、これからは女子教育も重要だということで小さな女の子も連れて行っています。30人の留学生のうち4~5名が女の子でうち一人は10歳にも満たなかったのですが、彼女は高校、大学と留学を終えて、帰国後に津田塾という有名な大学を作りました。その頃、女性にも勉強をさせなくてはという気づきがあったのは立派なことだと思います。使節団は約1年半という長期外遊だったわけですが、これはなぜか。それは西欧の本物を見たい、どういうところか見たいということだったわけです。そして、そういって出かけた彼らはショックを受けることになりました。日本にいると西欧の怖さはまず軍事力ですが、しかし、行ってみるとその背景には巨大な産業力があること、つまり、軍艦の背景には汽船がある、そして貿易があることに気づくわけです。そしてそれを学ぼうと考えた。これは日本政府が国内の発展を重視する、産業化を重視するという方針に舵をきった大きなきっかけです。

日本が当初やったことは沢山あります。例えば、今日のテーマである教育は非常に重要なものです。日本が重視したのは初等教育でした。多くの国において教育というのは高等教育から、王や貴族がしばしば自宅や大学を作って始めるのです。子供みんなに勉強させようということをやったのは多分日本が一番早いです。これを可能にしたのは江戸時代の寺子屋という伝統があったからです。子供はみんな学校に行って勉強するのは当然だという風土があったからできたのです。また、開智学校は1876年に設立され、校舎が現存する学校なのですが、各地で地方の人たちが次の若者のためにということでお金を出し合ってこういう立派な学校を作りました。高等教育にも力を入れましたが、海外から一流の先生を呼んできて当時の総理大臣より高い給与を払い、英語やドイツ語、仏語で授業をし、10年ほど後に日本人で優秀な学生が出てきたらこれを留学させ、帰国後後継者にしてお雇い外国人と交代させた。その後、日本は高等教育をすべて日本語でやるようになった。この結果、日本人の英語は下手になった。これは仕方ないことですが、その代わり裾野は広がったのです。アフリカでは全くそうではない、英仏の植民地では高等教育はイギリスやフランスに行ってやるものですし、大学はできるのですが、学問自体は英語やフランス語でやる。だから一部の限られた人しか高等教育を受けられない。

これだけのことがありましたから、大きな抵抗・反動もありました。例えば、戊辰戦争という戦争があり、政府の兵力は増大しました。兵力が大きくなるとどうしても対外膨脹の動きが出てきて、朝鮮との関係等はなかなか難しかったのですが、さきほど紹介した大久保利通のリーダーシップで対外膨脹を押さえ、国内の課題に集中させた。しかし、とうとう起こったのが西南戦争です。新政府は、藩を廃止しただけではなくて徴兵制で軍をつくることになり世襲の武士を失業させたわけです。そこで旧武士層の不満がたまり、維新の中心であった薩摩から維新の英雄である西郷隆盛を中心とした西南戦争という反乱がおきたのですが、これが明治10年。すなわち、伝統的な最強の侍「薩摩」と農民も含めた新政府軍という構図だったのですが、戦争は最初の数ヶ月が山で、少し長引きましたが、新しい組織と新しい装備を持った軍が圧勝しました。このとき日本は内乱を抱えるというピンチだったわけですが、大久保は国内の産業の充実が重要ということで、九州で大きな戦争をやっているにもかかわらず、同時期に国内で博覧会をやっています。日本が平和に発展していることを内外に見せつけることを重視したわけです。

3.自由民権運動と憲法制定

西南戦争の結果、軍事力による反乱はなくなりましたが、やはり政府に対する不満はあり、それが自由民権運動につながりました。息をつく暇もないほど大きな変革を次々と実施したわけですから反対が出てきても無理もないわけです。例えば、先ほどの徴兵制の導入は国民全部を基礎にした軍を作るとなれば、農民は戦争をやらされるから嫌ですし、武士は仕事をとられるので嫌なわけです。そうした不満を持った人たちは、軍事力では政府に勝てないので言論戦、自由民権運動に走ったわけです。これは大変重要な運動で、農民も政治に参加することになったわけです。また、新聞が発達し、情報網が整備されたことで重要な政治的争点がたちまち全国に伝わるようになりました。

そういうわけで、憲法や議会を作れという声が出てきて、反政府運動が広まり、政府はこれに対して弾圧もしましたが、自らも前向きに取り組んで憲法をつくったわけです。1889年に憲法を作り、その前に内閣制度も作っています。

4.議会政治の定着

日本の戦前の憲法は、一見天皇が強いように見えるが実は議会も強いものでした。議会に国民の権利はあらわれるのです。その国民の権利はかなり確固としたものとして与えられ、1889年の憲法発布の翌年の1890年に最初の衆議院選挙が行われ、最初の議会が開かれたのですが、これが明治23年、すなわち明治維新からわずか23年後でした。たしかに、当時の有権者は数も少なく、男性のみですが、皆議会が開かれたといって非常に張り切って投票にいった。当時、諸外国、西欧諸国はこれを非常にシニカルに見ておりました。「西欧人ではない国に議会ができるのか」といって見ていたのですが、できたわけです。その後の何度かの選挙の間には政府側が激しい干渉をしたこともありましたが、概して議会は順調に推移し、議会が始まった1890年からわずか9年で野党の内閣、政党内閣ができているのです。わたしはJICAの理事長として世界中の多くの国を見てきていますが、民主的な発展を進めるのも仕事の一つです。国民の声が円満に政治に代表されるようにと願っています。ただし、選挙があり、議会があっても、選挙の結果、円満に政権交替が行われることは極めて稀です。政権交代が円満に行われるのは大変難しいことですが、日本は1890年に成し遂げた。日本の憲法はドイツをまねたものと言われていますが、実はドイツは第一次大戦までそれはできていなかったのです。

その少し後ですが、東北地方の戊辰戦争で負けた側からも総理大臣が誕生しました。選挙があればどの地域も同じように代表を出し、一票は一票という時代ができたわけです。

今日は明治の初めから日露戦争まであたりをカバーしてお話しているわけですが、もちろん歴史というのはガラッと大きく変わるというよりは、段々明治維新の色が薄れ、同時に次の時代が始まってくるということではあるものの、明治維新というのは短い間に大きな変化を成し遂げた時代でありました。

天皇というものを利用して大きな変化を成し遂げたわけですが、いつまでも続くわけではなく、次の時代のチャレンジに十分応えつづけることは必ずしもできなかったことも申し添えたいと思います。

おわりに

明治国家を作った人たち、特に明治11年、1878年までのリーダーだった大久保利通、そのあとの伊藤博文というのは卓越したリーダーであり日本を開いていったわけですが、その骨格は何か、一番の中心は何かというと、私は自由主義革命、民主化革命、能力主義革命であったと思っています。自由主義革命というのはどういうことかというと、江戸時代には色々なことが制限されていて、西欧の学問を勉強してはいけない、身分の差を越えてはいけない、ということだったわけです。これが、能力次第でどこにでも行ける社会を作りたい、誰でも勉強して能力を発揮すれば出世できる、というのは、大変国民へのアピールとなり、やる気のある国民のエネルギーが沸騰するように沸いて出たわけです。これに対して、明治維新を薩長と幕府の争い等と捉えると、まもなく東北から総理大臣も出たこと等の説明もつかないわけです。皆が西欧と対抗するために一緒になって立ち上がろうという目標のために、自由化、民主化を進め、その結果、能力のある者なら誰でも上に行けるという体制を造っていったわけです。明治国家が完成した頃、そうした自由化、民主化、能力主義が薄れ、だんだん固定化し、そうしたエネルギーが阻害されるようになったというのが、次の時代の後退につながったと思うのですが、それについては今日はやめておきます。

その中でも重要だと思うのが、学問の自由であります。緒方塾、適塾について触れたように、彼らは競争してオランダ語の本を読んだわけです。適塾には辞書が一冊しかなかったのですが、それを交代して使い、競ってオランダ語の本を読む。また、明治になってからはみんなに教育の機会、立ち上がるチャンスを与える。こういうことを明治政府は先頭に立ってやっていました。高いお金を出して外国から先生も呼んできていました。途上国で子供を勉強させるのは簡単なことではありません。子供は労働力ですから。これをやっていったことが日本の発展の基礎です。教育重視は、広い意味では東アジアに共有されている遺産ですが、ベトナムでも学問には力を入れておられるし、留学にも力を入れておられるので、我々としてもその点で協力をするのは最も望むところです。今年は明治維新150周年であることを記念してJICAでは開発大学院連携という取組みを始めました。途上国のエリートに日本に留学してもらい、法学でも経済学でも領域は何でもいいのですが、併せて日本の近代化の歴史も勉強してもらう、日本がどこで成功したか、失敗したかをよく学んでいただき、その国の役に立てていただこうというものです。これは安倍首相も大賛成だということで我々も力を入れてやっています。もちろんベトナムからも来ていただいて、それぞれ適切な大学院で、英語で授業を受けていただくことを計画しています。日本は教育で立国した国ですし、西欧以外で近代化に最も成功した国です。また、日本はODAでも一番成功した国です。途上国の発展という問題では日本がリーダーであるべきだと考えています。開発の研究にはイギリスに行く人が多いのですが、イギリスより日本に来て勉強していただきたい。日本に最も熱心に学生を送ってくださる国の一つはベトナムです。そういう意味では大変先見の明がある。ベトナムと一緒にこのプログラムを成功させ、世界の発展に貢献していきたい、こういう風に思っております。ご清聴ありがとうございました。

以上