メキシコにおける講演「メキシコと日本の近代化」【於:メキシコ メキシコ市】

JICAの北岡理事長は2018年11月8日、メキシコ国際開発協力庁(AMEXCID)とJICAの共催イベントにおいて、日本研究などに携わる学者や官僚、日系人など約150名の聴衆に対し、「日本の近代化とメキシコ」についての講演を行いました。講演の概要は以下のとおりです。

I.はじめに:メキシコと日本の歴史

私は、2010年にメキシコのメキシコ自治工科大学(ITAM)で日本外交史に関する講義を行ったことがあり、この度8年振りに訪問することを楽しみにしておりました。

まず初めに、昨年9月に発生した2度の大地震でお亡くなりになった方、被災者の方々に対して心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。メキシコ政府からの要請を受け、日本政府/JICAは72名の隊員と4頭の救助犬からなる国際緊急援助隊を派遣致しました。ビル倒壊現場において、昼夜連続して捜索・救助活動を展開しました。大変な活動でしたが、メキシコ市民からの温かい支援があったからこそ、過酷な現場においても最後まで安全に救助活動をやり抜くことができました。今年からは、この時の活動が、メキシコの中学校の教科書で紹介されることになりました。国際協力について学ぶページの中で、さまざまな国や機関、市民団体が力を合わせて対応する例として、国際緊急援助隊の活動が写真入りで紹介されています。両国の結びつきを強めるものとして、大変嬉しく思います。

さて、歴史の話として、メキシコと日本との信頼関係の醸成にとって400年前にさかのぼる、重要な出来事を紹介したいと思います。

16世紀半ばから19世紀初頭には、約500トン前後の大型帆船ガレオン船がアカプルコ、マニラの間を半年かかって往復していました。メキシコからはコーヒー、バニラ、砂糖、金、銀、マニラからはインドネシア、中国、日本などから集められた絹、陶磁器、茶などが運ばれました。

1609年のこと、フィリピンのマニラからメキシコに向かっていたサン・フランシスコ号が遭難しました。船が暴風雨のため千葉県の御宿の沖で座礁したのです。乗組員373人の内、317名が、人口300人の小さな村の住民に助けられたと伝えられています。
乗船していたフィリピン臨時総督のロドリゴ・デ・ビベロは、当時の徳川第二代将軍秀忠や、初代将軍の徳川家康にも会うことが出来ました。この際、徳川家康はロドリゴ・デ・ビベロ達に船を用意し、無事帰国できるよう指示をしたと言われています。乗組員はその後、幕府から船を提供され、3か月間かかってアカプルコに向かいました。この時に日本人も乗船しており、初めて太平洋を渡った日本人と記録されております。また、アカプルコと御宿町は姉妹都市協定を締結しており、現在もなお交流が続いております。

1611年 ロドリゴ・デ・ビベロを送り届けてくれたお礼としてセバスティアン・ビスカイーノ答礼大使が日本に派遣されました。日本に派遣された最初のメキシコ大使となります。

そして、この時の答礼大使を乗せて、東北地方の仙台藩主伊達政宗が、家臣の支倉常長をメキシコ、スペイン、ローマに派遣したのが1613年の慶長遣欧使節です。主な目的は、通商と宣教師派遣を依頼する本格的な外交使節団でした。スペイン人40人、日本人140人の合計180人がアカプルコに到着しました。アカプルコで2か月間、メキシコシティで1か月半滞在しました。しかし、その目的が達成されることはありませんでした。7年もの長い旅を経て支倉が帰国したのは1620年のことでした。この間、キリスト教禁教令が江戸幕府によって徹底されていたのです。しかし、これは日本とメキシコにとって、一つ目の重要な出会いでした。

II.日本の近代化

1.明治維新とは何か

今日、明治維新のお話をするのは、今年が明治維新から150周年であるというのが理由の一つです。今から150年前、1868年に大きな政治的変化が起こりました。当時は王政復古と呼んでいました。それまでは徳川氏が支配していた時代が260年続いており、徳川氏の時代が終わるだけでも大変なことですが、それだけではなく、700年続いた武士、侍の時代が終わることでもありました。

当時、主導して徳川氏を倒したのは、日本の中では端に位置する薩摩藩と長州藩です。二つの地方政権が中央政権を打倒したのです。ところが、それだけであったらただの政権交代ですが、新政府はそのわずか3年後にこの藩というものをなくしてしまいました。なぜなら、イギリス、フランスといった国々に対抗するためには、国を一つにまとめなくてはならないと考えたからです。それだけではなく、薩摩も長州も、これをリードしているのは侍でしたが、この侍という身分も止めてしまいました。これは大変大きな変革です。その前はどうだったか。江戸時代は、士農工商という4つの身分に分かれていました。一番上に侍、次に農民、ものを作る職人、そして商人という順です。しかし、国民が身分で分かれていては、西欧に対抗できず、国民の力を結集しなければならないと考えたのです。

その後、新政府は着実に政治的な近代化を進め、1885年、近代的な内閣制度を作りました。当時総理大臣になった伊藤博文という人は、侍の一番下の身分出身であり、江戸時代であれば、身分の制約からとてもリーダーにはなれない人でした。つまり身分に関わらず、能力がある人は上に行けるという仕組みができた訳です。

それから1889年、明治22年には憲法を作っています。日本は西欧以外で憲法ができた事実上最初の国です。幕末からこういった政治制度が整うまで当然ながら流血を招く事態がありましたが、亡くなった人の数は3万数千人。これは歴史的な革命の中では、非常に少ない数です。フランス革命は、ナポレオン戦争まで含めると300~400百万人、ロシア革命も、スターリン体制下の粛清まで含めると数千万人が亡くなっています。

どうして明治維新の場合は犠牲者がずっと少なかったのでしょうか。これは明治維新を考える上で非常に重要な点です。

2.江戸時代の遺産

こうした歴史をお話しする際、その前の江戸時代についてご説明する必要があります。江戸時代の政治のユニークな点は、権威と権力が分かれていたことです。権威は京都の天皇にあり、権力は武士が持っていました。江戸時代、地方にはおよそ300の領地があり、そこに300人の大名がいました。こういった体制を政治学もしくは歴史学では封建制と呼びますが、江戸時代の体制は将軍が非常に強い権力を持っていました。大名には、参勤交代といって、1年おきに東京に住み、行列をなして国に帰って、1年地方に住むということを命じており、これを行うためには非常にお金がかかっていました。また、大名の妻と後継ぎは東京に住むことになっていました。これは幕府が大名を統制するための手段でした。

一方で、大名も地元においては権力が強く、お城を一つ建てることが許されていたので、侍には城の周りに住むよう命じていました。ここで生まれたのが、消費経済です。それまでは侍も農業も行っていたものの、以後は生産活動を行わずに消費者となり、いわば官僚として城の周りに住み、生産者は地方に住むという、城下町が誕生しました。

もう一つ江戸時代で重要なのは、対外関係において、鎖国をしていたことです。鎖国といっても朝鮮、貿易については清国、オランダと関係を継続していました。オランダについては、当時の日本が危険視していた布教を主な目的としたカトリックではなく、貿易を主な目的としたプロテスタントであったため、長崎に出島という隔離するための島を作り、その中でのみ貿易が許可されていました。

260年の間、これは大変驚くべきことですが、日本はほとんど戦争がなく、非常に平和でした。平和になった結果どうなったかというと、日本は大変豊かになりました。戦争がなくなり、農民が安心して生産に取り組むことができるようになった結果、米の生産量が増えました。その証拠に、日本の人口は1600年に1,200~1,300万人だったのが、わずか120年のうちに3,100万人と2倍以上になりました。

平和になった結果、商業も発達しました。大阪に市場ができ、全国の物品がここで取引されました。先ほど述べた城下町の発展もありました。参勤交代も、元来は大名統制の手段でしたが、その副産物として、交通が盛んになり、江戸の文化がすぐに地方に伝播するようになり、日本全体に共通の文化が生まれるようになりました。これは全く当初は予期されていなかったものでした。

また、識字率が向上しました。江戸時代の初めは、武士の中でも字を読めない人は大勢いましたが、江戸時代の後半には、成人男性の約半分、成人女性で3割は読み書きができるようになったと言われています。近代では高い数字と言えます。これは「平和の配当」の中でも重要なことです。字を書いてコミュニケーションができたのです。

加えて、文化が大いに発展し、成熟しました。日本の文化で世界に知られている歌舞伎や浮世絵は、この時代に中産階級の芸術として生まれたものです。古来、芸術は王侯貴族のものでしたので、中産階級の芸術が広まったことは、時期も含めて西洋でのシェークスピアに似ています。その中で当然学問も発展し、徐々に日本は一つだという意識も生まれてきました。それまでは自らのことを薩摩の人間、長州の人間など、「藩」の人間であると認識していた人々の間に、自分は日本人だという意識が高まってきた訳です。

先ほど交通が発達したと申し上げましたが、江戸時代には、女性が一人で旅行することができました。たとえば東京から400km先の伊勢神宮までもです。このようなことができる安全な国は当時他にはありませんでした。

ところがこの時代は良いことばかりではなく、悪いこともあったわけです。米を経済の軸としていたために、米のみに頼り、それ以外の産業が十分に発展しなかった。西洋では、ブルジョワジーの発展、税金の徴取、政治参加の要望の高まり、議会政治の定着、という一連の民主主義の発展が日本では起こらなかったのです。

それから、学問の自由が十分ではありませんでした。当時は儒学が正しい学問とされており、それ以外の学問は禁止されていました。そして政治的に非常に不自由でした。政府を批判することができなかった上、政治に参加するのは武士の中でもほんの一握りの人たちだけでした。

また、軍事技術が非常に停滞しました。実は、1600年から江戸時代の後半まで、武器の水準はほとんど変わっていません。200数十年武器が変わらないということがあり得るでしょうか。つまり、これは非常に日本が弱くなったということです。17世紀の初めの日本は、世界最大の軍事大国でした。日本にあった鉄砲の数を推計すると、世界のどこよりも多かったのですが、19世紀の半ばには日本の軍事技術が非常に遅れた状態となったのです。

更に、鎖国に伴い当然航海技術も遅れました。江戸時代の初期、1600年代前半、日本は500トンのガレオン船を作り、メキシコまで来ることができたわけです。ところが、外に行くことを禁止されたせいで、日本は国を越えた航海をしなくなりました。それで非常な停滞があったのです。この間、ヨーロッパは航海術を発展させています。すなわち、世界の中で、16-17世紀の日本は強国でしたが、18世紀以後は弱体化したのです。

その中で非常に大きな意味を持ったのは、小さいけれども、海外に窓口が開いていたということです。それは医学です。大阪に緒方洪庵という蘭方医の適塾という塾がありました。ここで学んだ人の中には、偉い人がいっぱいいます。例えば橋本佐内は、早くから開国の必要性を説き、江戸時代の大名の活動に非常に大きな影響を与えた人です。福沢諭吉は、日本に行ったことがある人はご存じかもしれませんが、1万円札の人です。彼は日本の近代化における知的影響力という点では第一の人物です。同時に慶應義塾大学を作った人でもあります。私自身も福沢諭吉の本を書いています。英語版もありますので、ご関心がある方は読んでみて下さい。また、大村益次郎は、長州藩の軍事指導者として天才的な働きをした人です。大村という人はオランダ語を勉強して、書物のみの理解から蒸気船を作りました。この大村が後に日本の徴兵制を作った元祖です。彼は武士というのは戦争の役には立たないということを痛感していました。なぜなら、武士というのは身分でできています。戦争は能力主義を以って組織された軍隊でなくてはできないという考えの下、身分制を止めて、能力主義の軍隊を作ろうとした人です。これは明治維新が実現した理由の一つです。

幕末に何故長州、薩摩が勝ったかということは、ここでは詳しく触れませんが、簡単に言えば、江戸幕府は強大だが、全て身分制度でできており、身分の高い人が司令官、低い人が兵卒だったが、それではだめだということです。薩摩・長州はこれを変えて、志のある人は皆集まれと言って、長州は武士ではない人材から成る軍隊も作っています。人材抜擢を行ったのです。そこに西欧の進んだ武器を買ってきて武装させて、これで幕府を打ち破りました。

3.維新政権の確立

さて、こうやって新しい政府が1868年にできたのですが、この新しい政府は早速そこで「五箇条のご誓文」という、天皇自らこれからこういう方針で政治を行うという方針を公表しました。そのうちの特に二つが重要です。一つ目は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(第一箇条)、つまり、独裁は行わず、みんなで議論をして決めようということです。二つ目は「知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし」(第五箇条)、つまり開国し、優れた知識を外国から取り入れていこうということです。

さらに、彼らが天皇の権威でもって実施したのが、廃藩置県、すなわち300あった藩を300の県にして大名を東京に呼び、その代わりに中央が任命する役人を各藩に配置することでした。つまり、それまでは世襲のリーダーが地方にいたわけですが、中央政府が任命する役人が地方にいくことになりました。中央集権革命です。これができたのは1871年の8月です。廃藩置県というのは、何百年もその地方のリーダーだった支配者を辞めさせて東京に出てこさせる大革命だったわけです。

そして、更に驚くべきことに、廃藩置県から半年も経たないうちに、岩倉使節団が海外に出たのです。国内の動揺が収まらないうちに、政府要人の多くが岩倉使節団として世界を見に行ったわけです。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允は当時の政府の中枢であったわけですが、当時の中枢の半分ぐらいの人間が、米国に5か月、英国に4か月、1年10ヶ月もの間、外遊に行ったのです。この150名からなる使節団は留学生も伴ったわけですが、これからは女子教育も重要だということで小さな女の子も連れて行っています。40人の留学生のうち4-5名が6歳-14歳の女の子でした。そのうち一人は高校、大学と留学を終えた後、次の世代の女性には学問が必要と考え、帰国後に津田塾という有名な大学を作りました。その頃、女性にも勉強をさせなくてはという気づきがあったのは立派なことだと思います。教育から近代化していったのです。使節団は約1年半という長期外遊だったわけですが、これはなぜか。それは西欧の本物を見たい、どういうところか見たいということだったわけです。

日本が当初やったことは沢山あります。例えば、日本が重視したのは初等教育でした。多くの国において教育というのは高等教育から、王や貴族がしばしば自宅や大学を作って始めるのです。子供みんなに勉強させようということをやったのは多分日本が一番早いです。これを可能にしたのは江戸時代の寺子屋という伝統があったからです。子供はみんな学校に行って勉強するのは当然だという風土があったからできたのです。高等教育にも力を入れましたが、海外から一流の先生を呼んできて当時の総理大臣より高い給与を払い、英語やドイツ語、仏語で授業をし、10年ほど後に日本人で優秀な学生が出てきたらこれを留学させ、帰国後後継者にしてお雇い外国人と交代させました。その後、日本は高等教育をすべて日本語でやるようになりました。この結果、日本人の英語は下手になりました。これは仕方ないことですが、その代わり裾野は広がったのです。戦後のノーベル賞の授賞者の輩出数も米英に次いで三番目です。過去20年間だけを見ると、米国に次いで二番目です。

これだけのことがありましたから、大きな抵抗・反動もありました。とうとう起こったのが1877年の西南戦争です。新政府は、藩を廃止しただけではなくて徴兵制で軍をつくることになり、世襲の武士を失業させたわけです。そこで旧武士層の不満がたまり、維新の中心であった薩摩から維新の英雄である西郷隆盛を中心とした西南戦争という反乱がおきたのですが、これが明治10年。
すなわち、伝統的な最強の侍「薩摩」と農民も含めた新政府軍という構図だったのですが、戦争は最初の2、3ヶ月が山で、新しい組織と新しい装備を持った軍が圧勝しました。このとき日本は内乱を抱える状況だったわけですが、大久保は国内の産業の充実が重要ということで、九州で大きな戦争をやっているにもかかわらず、同時期に国内で博覧会をやっています。日本が平和に発展していることを内外に見せつけることを重視したわけです。

4.自由民権運動と憲法制定

西南戦争の結果、軍事力による反乱はなくなりましたが、やはり政府に対する不満はあり、それが自由民権運動につながりました。息をつく暇もないほど大きな変革を次々と実施したわけですから反対が出てきても無理もないわけです。

例えば、先ほどの徴兵制の導入は国民全部を基礎にした軍を作るとなれば、百姓は戦争をやらされるから嫌ですし、武士は仕事をとられるので嫌なわけです。そうした不満を持った人たちは、軍事力では政府に勝てないので言論戦、自由民権運動に走ったわけです。これは大変重要な運動で、農民も政治に参加することになったわけです。また、新聞が発達し、情報網が整備されたことで重要な政治的争点がたちまち全国に伝わるようになりました。

そういうわけで、憲法や議会を作れという声が出てきて、反政府運動が広まり、政府はこれに対して弾圧もしましたが、自らも前向きに取り組んで憲法をつくったわけです。そして、政府は1889年に憲法を作り、その前に内閣制度も作っています。

5.議会政治の定着

日本の戦前の憲法は、一見天皇が強いように見えるが、実は議会も強いものでした。議会に国民の権利は現れるのです。国民の権利はかなり確固としたものとして与えられ、1889年の憲法発布の翌年の1890年に最初の衆議院選挙が行われ、最初の議会が開かれたのですが、これが明治23年、すなわち明治維新からわずか23年後でした。たしかに、当時の有権者は数も少なく、男性のみですが、皆議会が開かれたといって非常に張り切って投票にいきました。当時、諸外国、西欧諸国はこれを非常にシニカルに見ておりました。「西欧人ではない国に議会ができるのか」といって見ていたのですが、できたわけです。また、特に西洋から来ていたアドバイザーたちは、衆議院に権限を持たせることに反対していました。当時の日本は国民の参加を認めた結果、その後の何度かの選挙の間には政府側が激しい干渉をしたこともありましたが、概して議会は順調に推移し、議会が始まった1890年からわずか8年で野党の内閣、政党内閣ができているのです。よく日本の学者は、日本の憲法はドイツをまねたものと言いますが、実はドイツは第一次大戦まで政党は権力に参画できなかったのです。

わたしはJICAの理事長として世界中の多くの国を見てきていますが、民主的な発展を進めるのも仕事の一つです。国民の声が円満に政治に代表されるようにと願っています。ただし、選挙があり、議会があっても、選挙の結果、円満に政権交替が行われることは極めて稀です。民主主義の定着は難しい、と感じます。政権交代が円満に行われるのは大変難しいことですが、日本は1890年に成し遂げた。

その少し後ですが、1918年、東北地方の戊辰戦争で負けた側からも総理大臣が誕生しました。選挙があればどの地域も同じように平等に代表を出し、一票は一票という時代ができたわけです。

また、国民の参加を広げたことが、国民の力の結集に繋がり、その後の日清戦争や日露戦争での勝利に繋がりました。

今日は、明治の初めから日露戦争まであたりをカバーしてお話しているわけですが、もちろん歴史というのはガラッと大きく変わるというよりは、段々明治維新の色が薄れ、同時に次の時代が始まってくるということではあるものの、明治維新というのは短い間に大きな変化を成し遂げた時代でありました。

6.明治における日本とメキシコ

さて、日本とメキシコについての話に戻りますと、江戸時代に日本が鎖国を行ったことはさきほどお話しましたが、そのためにメキシコやスペインとの交流は途絶えてしまいました。200年以上にも長きに渡り鎖国政策がとられ、1853年以降、港を開き、各国と通商条約を締結していきます。

欧米諸国とは、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5か国と修好通商条約を結んでいきましたが、これらの国々の人に対しては裁判権も関税自主権も無いなどの不平等条約でした。不平等条約の改正は日本にとってとても大切なものでしたが、これを打破し、初めてアジア以外の国と平等条約を締結することができたのが1888年のメキシコとの修好通商航海条約でした。日本とメキシコの二つ目の重要な出会いです。1888年11月30日、メキシコと日本の修好通商航海条約を契機に、他の諸国との不平等条約が改正されました。今年は日墨修好通商航海条約締結130年の記念するべき年となります。

その後、日本人のメキシコへの移住が促進されることとなります。旧幕臣で、明治新政府でも外務大臣、文部大臣等を歴任した榎本武揚が、メキシコへの移住を組織しました。榎本は、旧江戸幕府で新政府に対して最後まで戦った人ですが、新政府でも大臣になったのです。日本のために才能を活かそう、という人が採りたてられていたのです。

その榎本の呼びかけで集まった殖民団34名が、1897年3月、メキシコに到着しました。彼らは日墨協同会社を結成し、農場、発電所、薬局、飲料水製造工場を運営し、アメリカ大陸初の日系人学校「アウロラ小学校」を作り、そして史上初の「西日辞典」まで編纂したのでした。

戦前から含め、おおよそ1万人の日本人がメキシコに移住されました。

7.まとめ

明治国家を作った人たち、特に明治11年、1878年までのリーダーだった大久保利通、そのあとの伊藤博文というのは卓越したリーダーであり日本を開いていったわけですが、その骨格は何か、一番の中心は何かというと、私は自由主義革命、民主化革命、能力主義革命であったと思っています。自由主義革命というのはどういうことかというと、江戸時代には色々なことが制限されていて、西欧の学問を勉強してはいけない、身分の差を越えてはいけない、ということだったわけです。これが、能力次第でどこにでも行ける社会を作りたい、誰でも勉強して能力を発揮すれば出世できる、というのは、大変国民へのアピールとなり、やる気のある国民のエネルギーが沸騰するように沸いて出たわけです。これに対して、明治維新を薩長と幕府の争い等と捉えると、まもなく東北から総理大臣も出たこと等の説明もつかないわけです。皆が西欧と対抗するために一緒になって立ち上がろうという目標のために、自由化、民主化を進め、その結果、能力のある者なら誰でも上に行けるという体制を造っていったわけです。

明治国家が完成した頃、そうした自由化、民主化、能力主義が薄れ、だんだん固定化し、そうしたエネルギーが阻害されるようになったというのが、次の時代の後退につながったと思うのです。

こうした中でも重要だと思うのが、学問の自由であります。緒方塾、適塾について触れたように、彼らは競争してオランダ語の本を読んだわけです。適塾には辞書が一冊しかなかったのですが、それを交代して使い、競ってオランダ語の本を読む。

今年は明治維新150周年であることを記念してJICAでは開発大学院連携という取組みを始めました。途上国の未来のエリートに日本に留学してもらい、法学でも経済学でも領域は何でもいいのですが、併せて日本の近代化の歴史も勉強してもらう、日本がどこで成功したか、失敗したかをよく学んでいただき、その国の役に立てていただこうというものです。これは安倍首相も大賛成だということで我々も力を入れてやっています。もちろんメキシコからも来ていただいて、それぞれ適切な大学院で、英語で授業を受けていただくことを計画しています。

日本は教育で立国した国ですし、西欧以外で近代化に最も成功した国です。また、日本はODAでも一番成功した国です。途上国の発展という問題では日本がリーダーであるべきだと考えています。開発の研究にはイギリスに行く人が多いのですが、イギリスより日本に来て勉強していただきたい。

III.未来志向の日墨関係

こうした留学制度という意味では日本とメキシコの間ではずいぶん古くから実施しています。

1971年、日本とメキシコ両政府の交換留学制度が始まりました。これは第50代メキシコ大統領 ルイス・エチェベリア大統領の発意によって始まったものです。今日まで日本側、メキシコ側双方で5,000名近い留学が実現しています。

加えて、1977年、日本及びメキシコ二つのコースからなる日墨学院も両国政府、メキシコ人、日本人の支援によって開校、爾来、日墨の架け橋となる若者を輩出しています。第53代メキシコ大統領カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領は、お子さんを日墨学院に通学させたと聞いております。

そして2005年、日本とメキシコは経済連携協定を発効しました。農業などがほとんど無いシンガポールを除けば2番目、アジア以外で日本が経済連携協定を締結した国の第一号がメキシコということとなります。先にご説明した明治期の平等条約と同様、まさに世界経済へ開かれた第一歩の協定国がメキシコでした。日本とメキシコの三つ目の重要な出会いです。

そして本年、2018年3月に合意に達しました11か国による「環太平洋パートナーシップ協定(TPP11)」においてもメキシコと日本は原署名国として名を連ねております。TPP11は、世界GDPの13%、域内人口5億人をカバーします。世界的に保護主義的な動きが広がりを見せる中で、自由貿易の旗を高く掲げ日本とメキシコが世界に範を示すものであり、アジア・太平洋の重要な基盤となり、戦略的関係を更に強化させるものだと考えています。

メキシコと日本はG20のメンバー国でもあり、自由貿易推進という同じ価値観にコミットした両国が、世界経済の持続的かつ包摂的な成長と安定,また,諸課題への取組を主導すべく力強いリーダーシップを一緒に発揮していきたいと考えています。

翻ってみれば、この環太平洋の流れは、400年前の大型帆船ガレオン船が廻った太平洋湾岸諸国の絆そのものに他なりません。

戦後初の駐日代理大使となった、ノーベル文学賞作家のオクタビオ・パスは「メキシコ人はヨーロッパと東洋の狭間にいます。いまや、我々が目を向けるべきは、太平洋なのです。」と強調されました。因みに、オクタビオ・パスは日本文学にも造詣が深く、日本俳諧史上最高の俳諧師の一人と言われる松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」をメキシコ自治大学(UNAM)から西語訳を出版されています。

メキシコと日本は、民主主義だけでなく、文化も共有してきたのです。

IV.最後に

2017年、JICAは「信頼で世界をつなぐ」をキーワードに、新たなビジョンを定めました。信頼は、日本の開発協力の根幹をなす概念です。我々は、援助(aid)や支援(assistance)ではなく、日本は双方の理解を通じて共に取り組む「協力」(cooperation)を行っています。これからも「協力」を続け、これをもって世界に貢献していきたいと考えています。

日本とメキシコは、太平洋を挟んだ隣国です。400年以上に渡る隣国関係を継続し、信頼を築き上げてきたように、この信頼関係をより多くの国と分かちあっていきたいと考えています。

ご清聴ありがとうございました。

以上