「フジタ・ニノミヤチェア」創設記念講演「日本の近代化と日伯関係」【於:ブラジル連邦共和国 サンパウロ市 サンパウロ大学法学部講堂】

開催日:2019年11月4日
場所:ブラジル連邦共和国 サンパウロ市 サンパウロ大学法学部講堂

1.はじめに

皆さま、こんばんは。このすばらしい歴史的な建物で講義をさせていただくことは大変光栄でございます。本日は、日本の近代化についてお話したいと思っております。一つ最初に申し上げますと、さきほどご紹介にあずかりました通り、私は2004年から2006年まで、国連大使(国際連合日本政府代表部次席代表)をやっておりました。その時、日本はドイツ、インド、ブラジルとともに、国連の安全保障理事会を改革しようとしていました。残念ながら結果を残すことは出ませんでしたが、その過程で私はブラジルと非常に親しくなりました。共通の目標を掲げて進むということは非常に良い事だと思います。しかも、安保理というのは、第二次世界大戦でたまたま勝利した国が常任理事国で、敗戦国が入っていません。アフリカなども入っていないことはおかしいという事で運動をし、かなり良い線までは行ったのですが、結果は伴いませんでした。しかし、この運動を通して、ブラジルは本当に良いパートナーでした。今後とも日本の良きパートナーであることを確信しています。それが今日、このようなお話をさせていただく事にもつながっていると思います。

さて、日本は、今年大きな変化の年でございました。それまで「平成」と言っていた時代から「令和」と言う時代になりました。日本には、暦の数え方に二つの種類がございます。一つは西暦で、今年は2019年でありますが、もう一つは和暦で、2019年は「令和」元年と言います。すなわちそれは、天皇陛下が替わられるとともに変わる暦です。ですから今年は、新しい天皇陛下が即位された最初の年になります。2019年5月に天皇陛下が即位されましたので、「平成」天皇の最後の年は平成31年でございました。このように暦が変わってくるのでありますが、このように皇帝や王様とともに年が変わるというのは、実は、昔から世界中にたくさんあったシステムです。しかし、今もまだ残っているのは日本だけではないかと思います。やや複雑ではありますが、個性があって良いのではないかと私も思っております。

そして、去る10月22日には「即位礼正殿の儀」が行われまして、非常に古い様式に従って、皇位継承を公式に国内や諸外国へ宣明するという儀式が行われました。三権の長や47都道府県知事など様々なリーダーが参加したのはもちろんの事、約2,000人の方が参列され、うち、外国からは191カ国・機関などから423人の方が参列しました。ブラジルからは、ジャイール・メシアス・ボルソナーロ第38代大統領も参列されました。私も参列させて頂きました。

そしてこのとき、天皇陛下は、天皇の代替わりを象徴する調度品「高御座(たかみくら)」に立ち、即位を内外に宣明されました。私も傍で見る事が出来ましたけれども、非常に立派な調度品でございます。ここに立って、「国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望します」というお言葉を述べられました。

今に続く、天皇制の多くの制度は7~8世紀から始まったと言われております。ただ、天皇制自体は、既に千数百年の長い歴史があるという訳でございます。
現在の「高御座」は、今の天皇陛下の曽祖父である大正天皇が同じく即位礼で使われたものです。それは1915年の事です。私は、参列しましたけれども、端っこの方でしたので良く見えませんでしたが、スクリーンで拝見する事が出来、大変洗練された構造で感心した次第であります。

さて、新しい「令和」という元号はどこから来たかと言いますと、日本の古典であります万葉集という歌集から採られました。「令和」とは和やかな平和という意味です。万葉集は、7世紀から8世紀にかけて作られた、1200年余り前に編纂された日本最古の歌集で、天皇や皇族だけではなく、農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が4500首以上収められています。世界の古典の中で、無名の庶民の歌や文学作品が沢山入っているものはおそらくほとんどないと思います。同時に、万葉集と言うのは、実は今の人でも、若い方、中学生くらいでもちょっと勉強すれば、読んで感動する事が出来ます。これは、天皇制と並んで、文化的な連続性を示す非常に良い材料の一つだと思います。

さて、今から2年前、一昨年ですが、上皇上皇后両陛下は在京ブラジル大使館を訪問されました。ブラジル大使館において、上皇陛下がブラジルを初めて訪問されて50年が経過した事を記念して、写真展が開かれ、訪問された訳でございます。上皇上皇后両陛下を始めとして、実は日本の皇室はブラジルと非常に深い関係にございます。それは、日本人の多くの方々が移民としてブラジルへやってきて定着した、そしてブラジルの方々に受け入れていただいたという事をとても感謝しているという事でございます。私は、皇太子殿下を始め皇室のお子様たちの最初の海外旅行は、まずブラジルと考えられておられると、直接伺ったことがあります。それほどブラジルのことを大切に思っておられます。

また、昨年3月には当時の皇太子殿下、現在の天皇陛下がブラジリアで開催された第8回世界水フォーラムに御臨席されました。当時の皇太子殿下は、オックスフォード大学で学ばれた際、テムズ川について勉強されました。水と言えば生活に欠かせないものであり、防災という観点からも、水の研究に大変熱心であり、国際社会でリーダーシップを取っていらっしゃいます。

さて、つい最近の事なのですが、私の先輩であります元JICA理事長、国連難民高等弁務官でもあられた緒方貞子さんが先月お亡くなりになりました。国際社会で最も有名なリーダーのお一人でありました。92歳でした。1990年代、冷戦後に世界の様々な地域で紛争が勃発した際、国連難民高等弁務官として卓越したリーダーシップをもって対応し、非常にご活躍され、尊敬された方です。
この緒方さんに対し、2017年には人権分野での多大な功績があったとして、ブラジル連邦共和国政府より「リオ・ブランコ勲章グランクルス位」を授与されています。このように、ブラジルと日本のご縁は大変深いものでございます。JICA理事長としても、「人間の安全保障」の現場での実践を打ち出された方でありますが、そのご功績と在りし日のお姿を偲びつつ、安らかなる眠りをお祈り致します。

少々分野を変えますと、スポーツというのは大変興味深いものがございます。ブラジルのスポーツと言えば世界のどんな人に聞いても、サッカーという言葉が返ってくるでしょう。我々日本は、ブラジルから非常に多くの事を学んでおります。一方、我々日本も強いスポーツがございました。例えば、バレーボールです。今はブラジルが断然強くなっておりますが、ひと昔前までは日本は非常に強かったのです。そしてブラジルのバレーボールの強さの背景に、日本も貢献したという経緯がございます。

また最近では、2016年リオ・オリンピックの柔道女子57キロ級では、リオデジャネイロ出身のラファエラ・シルバ(Rafaela Silva)選手が金メダルを獲得しました。誠にめでたい事です。シルバ選手のコーチは、藤井裕子さんという日本人ですから、彼女の活躍も日本とブラジルが一緒になって獲得した日伯合同の成果ではないかと思っております。実は、今世界で柔道人口が最も多いのはブラジルです。来年の東京五輪でも是非頑張ってほしいと思っています。

2.ブラジルとJICAとの関わり

さて、私にとっては、今回、JICA理事長として2度目のブラジル訪問であり、サンパウロは2年半ぶりの訪問となります。
2年半前にこちらに来た時は、二宮さんとともに、1908年に第一回移民船が到着したサントス港にある日本移民ブラジル上陸記念碑や、同地にある老人ホームを訪れ、入居者の方々のご苦労を聞かせていただきました。また、この時非常に印象的だったのは、アマゾン・トメアスで活躍されている日系人の方々でした。

地域警察(KOBAN)についての協力も行っています。KOBANは、抽象的に言えば警察が地域社会に浸透し、犯罪を未然に防ぐというコンセプトになります。大変効果的に成果を上げていると思います。これも、ブラジル側で理解して咀嚼し、受け止めて下さったからだと思っております。

またJICAが取り組んできた事業の中に、チエテ川の治水もございます。かつて大雨のたびにサンパウロを水浸しにしていたチエテ川も、我々の協力で安定したというのも大変嬉しく思っております。今般、市内で車を走らせていた際、「ここは昔、川だった」という話も耳にし、この事業を思い起こした訳でございます。

また、セラード開発事業をブラジルと一緒にできたことも誇りに思っております。日本、ブラジル双方の官民が出資をし、事業会社を設置し、その事業会社が中心になって、セラード一帯への入植農家を募り、入植に必要な土壌改良、大豆改良を日伯の研究者がEMBRAPA(エンブラパ 農牧研究公社)で一緒に研究を行い、入植農家へ営農指導等を行ったのです。また、営農資金の原資を低利で融資しました。
様々な事を行いまして、その事業成果が発端となり多くの企業の参入がなされ、セラード地帯が緑の大地となったこと、これは世界の食料安全保障に大きく貢献し、農学者からは、20世紀の農業史において、非常に記念すべき事業だと言われております。先ほどの学長からの挨拶でも言及して頂いた事に御礼を申し上げます。

また、今年はアマゾン入植90周年になる記念の年でもあります。先ほど申し上げました通り、前回訪問時には、アマゾン地域にあるトメアス移住地も訪問しました。
日本とは異なる熱帯の地で、農業協同組合を中心に日系人とブラジルの方々が力を合わせて、同地で開発された熱帯農業技術であるアグロフォレストリーの成果を目に焼き付けたところで、大変嬉しく思います。私の前に行かれたJICAの理事長訪問から28年ぶりだったという事でございまして、大変感銘を受けました。

3.フジタ氏、二宮氏との出会い

さて、ここで、フジタさん、二宮さんとの出会いの話に戻りたいと思います。私のブラジルとの出会いは、40数年前、1973年にさかのぼります。私は、東大の大学院にいたのですが、ある先生に呼ばれて、ブラジルから二人の留学生がやってくるので、しっかりつきあってほしいと言われました。一人は外交官の藤田さん(エドムンド・ススム・フジタさん)、もう一人は学者の卵で二宮正人さんでした。私は、フジタさんの日本語チューターをつとめました。彼らは、ブラジル政府が日本専門家を養成しようと考えて派遣した若者でした。

実は、ブラジルでは、外交官の地位は非常に高いのです。どの国を見ても外交官の地位は非常に高いという事になってはおりますが、本当は大きな力を持っているのは財務省と軍と警察でございます。しかし、ここブラジルでは外務省の地位が非常に高く、なかなかそこに日系人は入る事が出来ませんでした。その中で、フジタさんは日系人としてブラジルで初めて外交官になります。ブラジルの外交官試験はとても難しいと聞いています。フジタさんは、ここサンパウロ大学を卒業され、日系人として初めて外交官試験を抜群の成績で突破されました。その後、ブラジル外務省アジア・オセアニア局長、駐インドネシア大使や駐韓大使を歴任されましたが、2016年に不幸にして亡くなられました。私がJICA理事長になって半年後です。その時に私はお葬式などには出られなかったのですが、フジタさんを記念して何か事業をやろうと思いました。実はそれが、この「フジタ・ニノミヤチェア」につながっている訳でございます。

もう一人が、同じくサンパウロ大学を卒業された二宮さんです。東京大学大学院の博士論文というのは、たぶん、当時は世界一難しかったのです。というのも、日本法の基礎になったドイツ、フランス、英米の法律をきちんと勉強して、それから日本の法律を勉強してオリジナリティを出さなくてはならない。それまで韓国、台湾など、漢字圏からの留学生で、日本語の博士論文を書いた人はいましたが、それ以外にはいなかったのです。二宮さんは、その第一号。大秀才が血のにじむような努力をされてできたことです。本当に立派な方です。留学されていた間、みなさんに非常に愛され、帰国の際には盛大なパーティーを行いました。その後も非常勤講師をしていただくなど、非常に縁の深い方でございます。

それから、単にサンパウロ大学教授、弁護士であるだけでなく、日本とブラジルとの間のさまざまな問題で、多くに対応してこられました。日本とブラジルの間におられる人達の中で、お世話にならなかった人はいないのではという位、活躍されておられます。上皇上皇后両陛下のご信任も厚く、両陛下とブラジル大統領とのご会見の際の通訳はもちろん、両陛下が詠まれた和歌をポルトガル語に訳し、多くのブラジルのみなさんに皇室を紹介されています。最近で言うと、即位礼正殿の儀参列のため来日されたボルソナール大統領の通訳として、日本に居られた二宮さんの滞在日程を伸ばさざるを得ないこともあったようです。

お二人は、日系人としてブラジルと日本の関係強化にご尽力されてきました。私は、日本との絆を大切にしてこられたお二人のこれまでのご功績を記念し、その思いを後世につなぎ、お二人の後に続く人材を育てるため、「フジタ・ニノミヤチェア」をお二人の母校であるサンパウロ大学に開設することを構想しました。私は、日伯関係は非常に良いけれども、学術的な分野でもう少し何か出来る事があるのではないかと思っていました。サンパウロ大学にはこの構想を受け止めて頂き、このたびチェアの創設に至りました。特に、三菱UFJ銀行様などから多大なご協力をいただきまして、開設をすることが出来ました。この間のサンパウロ大学、関係者のお力添えに深く感謝申し上げます。

4.日本の近代化

(1)明治維新

さて、本日は、日本が近代化するにあたって重要な起点となった明治維新のお話を致します。今から151年前、1868年に明治維新という大きな政治的変化が起こりました。明治維新は英語で言うとMeiji Restorationと言われています。ポルトガル語でもRestauraçãoという同じ言葉を使っています。このRestorationと言うのは、古いものへ戻すという意味です。当時の政府が、昔の正しい政治に戻すという意味で意図的に使った言葉で、王政復古と呼んでいました。しかし、本当は昔に戻すのではなく、明治維新というのは大革命でした。1868年には、これから天皇を中心とする政治を行う「王政復古」という宣言がなされました。それまでは、徳川氏による江戸幕府が支配していた時代が260年続いていました。江戸幕府というのは、首都である江戸に着目した呼び方になります。260年間続いていた徳川氏の時代が終わるだけでも大変なことですが、それだけではなく、700年続いた武士、侍の時代が終わることでもありました。

その前の1853年、アメリカからペリーという人がやってきて、日本に開国を求めました。日本はそれまで鎖国をしていましたから、大変な騒ぎになりました。それから約15年で政権がひっくり返ったのです。その後の変革は非常に大きなものであり、これからお話したいと思います。

当時、主導して徳川氏を倒したのは、薩摩藩と長州藩です。当時の日本は、たくさんの藩というものに分かれており、多い時は300、少ない時は260位あり、この藩が地方の単位でした。薩摩、長州という、言わば辺境にある二つの地方政権が結託して、徳川中央政権を打倒したのです。ところが、それだけであったらただの政権交代ですが、新政府は、そのわずか3年後に、長年続いていたこの藩というものをなくしてしまいました。藩にいた大名は、実に12~13世紀くらいから各地方にいるのです。その彼らを地方から引きはがして東京に連れて行きました。7世紀近く続いた体制を廃止したという大変革です。

江戸時代は、士農工商という4つの身分に分かれていましたが、身分制度もやめてしまいました。すごい事だと思いませんか。なぜそういうことが出来たのかと言うと、それは西洋の脅威です。国民が身分で分かれていては、西洋諸国に対抗できず、ひょっとしたら植民地にされてしまう。その脅威が、国民の力を結集し、一つの国を作ろうという動きになったのです。

その後、新政府は着実に政治的な近代化を進めたわけですけれども、1885年に近代的な内閣制度を作りました。元号で言うと明治18年の事です。わずか18年のうちに、近代的な内閣制度が出来ました。当時44歳で総理大臣になった伊藤博文という人は、武士の一番下の身分出身です。厳密に言うと、武士の下に足軽というのがいて、馬に乗ることが出来ない低い身分の出身ですね。武士と言えるかどうかも分からない。江戸時代であれば、とてもそのような地位には就くことができない人でした。これは一言で言うと、一種の能力主義革命と言えると思います。つまり、身分に関わらず、能力がある人は上に行けるという仕組みができた訳です。それから1889年、明治22年に明治憲法を作っています。西洋諸国以外で憲法ができた国は実はトルコですが、定着しませんでした。西洋以外では、日本が事実上最初の国です。

明治維新のすごいところはまだあります。幕末からこういった政治制度が整うまで、当然流血を招く事態がありましたが、亡くなった人の数は3万5千人位だと言われています。これは革命としては非常に少ない数です。フランス革命は、大変血なまぐさい革命であり、ナポレオン戦争に続く訳です。ですからナポレオン戦争まで含めると、おそらく亡くなった方は300~400万人で、日本の明治維新はその100分の1程度です。ロシア革命も、スターリン体制下の粛清まで含めると数千万人が亡くなっています。中国の文化大革命でもやはり何千万もの人が亡くなっています。どうして明治維新の場合は犠牲者がずっと少なかったのでしょうか。これは明治維新を考える上で非常に重要な点です。

(2)江戸時代の遺産

こうした歴史をお話しする際、明治時代の前の江戸時代についてもご説明する必要があります。江戸時代の政治のユニークな点は、権威と権力が分かれていたことです。江戸時代は、先ほど申し上げた通り、封建制でした。権威は5世紀位から続く京都の天皇にあり、権力は武士が持っていました。江戸時代、地方にはおよそ300の領地があり、そこに300人の大名がいました。

こういった体制を政治学もしくは歴史学では封建制と呼びます。世界にも色々封建制はあり、日本にもありましたし、ヨーロッパにもありました。その中で、江戸時代の体制では、将軍が非常に強い権力を持っていました。強さを維持させた背景の一つに、参勤交代という仕組みがありました。1年おきに江戸に住み、行列をなして国に帰って、1年地方に住むということを大名に命じており、これを行うために非常にお金をかけさせました。また、大名の妻と後継ぎは、江戸に住むことになっていました。これは言わば人質です。幕府が大名にお金を浪費させ、統制するための手段でした。

一方で、大名も地元においては権力が強く、お城を建て、城の周りに住むよう侍に命じていました。お城を作ることも将軍命令でした。日本のお城は本当に美しい。なぜ美しいかと言うと、戦争後に建設しているからです。ここで生まれたのが、消費経済です。それまでは、侍は農業も行い、戦争が始まると戦争に行っていました。以後は、生産活動を行わずに消費者となり、生産者は地方に住むという、城下町が誕生しました。そこから経済の発展が始まる訳です。

もう一つ江戸時代で重要なのは、鎖国をしていたことです。スペインやポルトガルはキリスト教を持ち込む国だとして非常に警戒していました。鎖国といっても、朝鮮、清国、オランダとは関係を継続していました。オランダについては、当時の日本が危険視していたカトリックではなく、プロテスタントだったため、長崎に出島という隔離するための島を作り、その中でのみ貿易が許可されていました。鎖国と出島というのは、大変面白いものであります。

さて、260年にわたる江戸時代の間、日本には戦争がありませんでした。これは大変驚くべきことです。2世紀以上戦争がないというのはめったにありません。

平和になった結果どうなったかというと、日本は大変豊かになりました。大名は競って開拓を行い、農地を広げました。それまで刀に使っていた鉄で犂や鍬を作り、これらの農機具を使って土地を耕せるようになりました。戦争になると、侍は村から収奪してしまいますが、戦争がなくなり、農民が安心して生産に取り組むことができるようになった結果、米の生産量が増えました。その証拠に、江戸時代初期の日本の人口は1,200~1,300万人だったのが、わずか100年あまりのうちに3,100万人と、2倍以上になりました。これは前近代史の中では非常に高い数字です。

平和になった結果、寺子屋が出来、識字率が向上しました。江戸時代の初めは、武士の中でも字を読めない人は大勢いましたが、寺子屋を通じて、庶民が読み書き、そろばんが出来るようになりました。江戸時代の後半には、成人男性の5割近い人、成人女性で3割は読み書きができるようになったと言われています。これは前近代では大変高い数字と言えます。字が読めるということは、文書を通じた行政が出来るということです。文書で法令等を広く、すぐ伝える事が出来るようになり、文書行政が早く、正確になりました。

加えて、文化が大いに発展し、成熟しました。日本の文化で世界に知られている歌舞伎や浮世絵は、この時代に中産階級の芸術として生まれたものです。葛飾北斎や伊藤若冲と言った芸術家は、今でも世界的な人気を誇っています。多くの場合、芸術と言うのは、王様や貴族が保護して発展するものです。一方、歌舞伎や浮世絵は、庶民の間で発展し、武士も参加しました。その点が非常に先進的であった訳です。その中で、当然学問も発展し、徐々に日本は一つだという意識も生まれてきました。それまでは、自らのことを薩摩の人間、長州の人間など、「藩」の人間であると認識していた人々の間で、日本は一つだという意識が高まってきた訳です。

参勤交代も、元来は大名統制の手段でしたが、旅行を発展させました。その副産物として、交通が盛んになり、宿屋も整備されました。江戸の文化がすぐに地方に伝播するようになり、日本全体に共通の文化が生まれるようになりました。
先ほど交通が発達したと申し上げました。江戸から伊勢神宮という有名な神社まで400km位ありましたが、江戸時代には、女性が一人で旅行することができました。このようなことができる安全な国は、当時世界にはありませんでした。
もう一つ申し上げると、さきほどご説明した参勤交代を通じて、大名同士で知的コミュニティ形成や意見交換が出来ました。それが明治維新の大前提となっています。

ところがこの時代は良いことばかりではなく、悪いこともあったわけです。

一つは、軍事技術が非常に停滞しました。実は、1600年から江戸時代の後半まで、武器の水準はほとんど変わっていません。200数十年武器が変わらないということがあり得るでしょうか。ここで申し上げておくと、17世紀の初めの日本は、世界最大の軍事大国でした。日本にあった鉄砲の数を推計すると、世界のどこよりも多かったのです。ところが、19世紀の半ばには、日本の軍事技術は非常に遅れた状態となったのみならず、鎖国に伴い、当然航海技術も遅れました。ペリーが来航した際、日本が持っていた船は、ペリー艦の10分の1の大きさしかありませんでした。
鎖国に伴い、航海術も発展せず、日本の周りしか航海できなくなりました。この間、ヨーロッパは航海術を発展させています。つまり、これは日本が非常に弱くなったということです。

また、米を経済の軸としていたために、米に頼り、それ以外の産業が十分に発展しませんでした。また、ヨーロッパのように、ブルジョワの発展、税金の徴取、政治参加の要望の高まり、議会政治の発展、という一連の流れが日本では起こらなかったのです。

学問の自由も十分ではありませんでした。当時は、儒学が正しい学問とされており、それ以外の学問は禁止されていました。そして、政治的に非常に不自由でした。政府を批判することができなかった上、政治に参加するのは武士の中でもほんの一握りの人たちだけでした。

これらが、先ほど述べた、江戸時代の良かった点の裏返しです。今日、日本では江戸時代は良かったという人もいるのですが、江戸時代のマイナスの面も、我々は直視しなくてはならないと思っています。

そのような時代にあって非常に大きな意味を持ったのは、小さいけれども、海外に窓口が開いていたということです。それは医学です。人体解剖を見た時に、オランダから来た医学書の正確さに驚き、先進的なオランダから学ぼうと考えました。大阪に、緒方洪庵という蘭学者・医学者が開いた「適塾」という塾がありました。ここで学んだ人の中からは、有能な人材が沢山輩出されました。

その一人である大村益次郎は、長州藩の軍事指導者として天才的な働きをした人物で、元々は医者です。大村という人はオランダ語を勉強して、書物のみの理解から蒸気船を作りました。この大村が、後に日本の徴兵制を作った元祖です。彼は、武士というのは戦争の役には立たないということを痛感していました。なぜなら、武士というのは身分でできています。戦争は能力主義を以って組織された軍隊でなくてはできないという考えの下、身分制を止めて、能力主義の軍隊を作ろうとした人です。これは、明治維新の下での能力主義革命が実現した理由の一つです。

福沢諭吉は、日本に行ったことがある人はご存じかもしれませんが、1万円札の人で、それだけ日本でも尊敬されている人物です。彼は、日本の近代化における知的影響力という点では、第一の人物です。同時に、慶應義塾大学を作った人でもあります。彼は、幕末に3回海外に行っています。それまで、福沢はオランダ語の達人でしたが、横浜の開港場を見学しようと横浜を訪れた際、横文字の看板が全然読めずに大変なショックを受けます。それは英語だったからです。そこで福沢は、これからは英語を勉強しようと決意します。
福沢は、最初の遣米使節が送られた際、従者としてアメリカを訪れ、アメリカ人に「ジョージ・ワシントンの子孫は今どこで何をしていますか」と最初に聞いたそうです。そこで福沢は、世襲ではない形で政治が行われている事を知ります。

福沢諭吉については、私も本を書いています。福沢を第一級の知識人たらしめているのは、彼が直面した課題の大きさと、それに対して示した彼の回答の深さです。
30歳代の福沢は、ベストセラーとなった「学問のすすめ」や「文明論之概略」を出版しました。これらで、福沢は、西洋文明との対比の中で日本文明の特質を捉え、また日本政治の特質を鋭く指摘し、日本の発展のために何が必要であるかを真正面から論じました。こうした課題は、日本だけのものではありません。西洋と非西洋との違いは何か、非西洋世界の近代化は可能か、というところまで広げて考えれば、世界史的な意味を持つ課題なのです。

幕末に何故、長州・薩摩が勝ったかということは、ここでは詳しく触れませんが、簡単に言えば、江戸幕府は強大だが、全て身分制度でできており、身分の高い人が司令官、低い人が兵卒だったが、それではだめだということです。
薩摩・長州はこれを変えて、志のある人は皆集まれと言って、長州は武士ではない人材から成る軍隊も作っています。人材抜擢ができたのです。そこに西欧の進んだ武器を買ってきて武装させて、これで幕府を打ち破りました。

(3)維新政権の確立

さて、こうやって新しい政府が1868年にできたのですが、この新しい政府は早速そこで「五箇条のご誓文」という、天皇自らこれからこういう方針で政治を行うということを公表しました。そのうちの特に二つが重要です。
一つ目は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(第一箇条)、つまり、独裁は行わず、みんなで議論をして決めようということです。
二つ目は「知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし」(第五箇条)、つまり開国し、優れた知識を外国から取り入れ、大いに国を発展させていこうということです。

その3年後、さらに、彼らが天皇の権威でもって実施したのが、廃藩置県、すなわち300あった藩を300の府・県にして大名を東京に呼び、その代わりに中央が任命する役人を各府・県に配置することでした。つまり、それまでは世襲のリーダーが地方にいたわけですが、中央政府が任命する役人が地方にいくことになりました。中央集権革命です。これができたのは1871年8月なのですが、驚くべきことに、さらにそこから、半年も経たないうちに、岩倉使節団が海外に出たことです。

廃藩置県というのは、何百年もその地方のリーダーだった支配者を辞めさせて、東京に出てこさせる大革命だったわけですが、それによる国内の動揺が収まらないうちに、政府要人の多くが岩倉使節団で世界を見に行ったわけです。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら、当時の政府の中枢の半分ぐらいの人間が、長い人で1年10ヶ月も外遊に行ったのです。使節団は、約1年半という長期外遊だったわけですが、これはなぜか。それは西洋の本物を見たい、どういうところか見たい、ということだったわけです。今後の新しい国家の方向の模索でした。彼らの希求はそれほど切実だったのです。

岩倉使節団の成果は、殖産興業政策でした。それ以前の初期殖産興業政策は工部省を中心としたもので、鉄道や鉱山など、国内の政治的経済的統一を推進するためのものでした。より本格的な殖産興業政策は、使節団帰国後に始まります。その中心となったのは、大久保利通であり1873年創設の内務省でした。強兵のためにはまず富国、そしてそのためには最初に産業基盤を整備しなければならないことが理解され、そのための最初のリスク、創業者負担というものは、国家が担おうとしたのでした。大久保利通は、自ら朝市を歩いて、よい種や苗を探し、帰国後には私営の農業学校を開いて農業教育に務めたほどでした。

このように、大久保は産業を興そうとしましたが、なかなか大変でした。旧士族に中には文化が大事という人もいて、そこで起こったのが征韓論と言う事件であります。当時の朝鮮と日本との関係は、上手くいっておらず、日本が出した手紙にも返事がありませんでした。それに不満を持つ人達が、武力でもって朝鮮を開国させようとしました。幕末の最大の英雄である薩摩の西郷隆盛も、結局こっちの方に行ってしまいました。しかし、双方重視したのは教育でした。農業では、官営模範牧場、官立農学校、疎水事業などがその例です。工業では、使節団以前から着手されていましたが、官営の模範工場がいくつか建設されました。

驚くべきことに、この岩倉使節団は留学生も伴ったわけですが、これからは女子教育も重要だということで、小さな女の子も連れて行っています。40人の留学生のうち5名が6歳-14歳の女の子でした。そのうちの一人である津田梅子という女性は、高校、大学と留学を終えて、次の世代では女性も学問が必要だと考え、帰国後に津田塾大学という有名な大学を作りました。その頃、女性にも勉強をさせなくてはという気づきがあったのは立派なことだと思います。
この旅行で、彼らは欧米の力をまざまざと見せ付けられ、日本の遅れを痛感し、恥ずかしいと感じ、何とかこれを克服したいという痛烈な願望にとらわれるようになったのです。

日本が当初やったことは沢山あります。例えば、日本が重視したのは初等教育でした。多くの国において、教育というのは高等教育から、王や貴族がしばしば自宅や大学を作って始めるのです。身分に関係なく、子供みんなに勉強させようということをやったのは多分日本が一番早いのです。
当時の教育は、地元負担が多く、また子供の労働力が学校に奪われるだけなので、全体として高価なものでした。にもかかわらず、学校は非常な勢いで普及しました。
これを可能にしたのは、江戸時代の寺子屋という伝統があったからです。子供はみんな学校に行って勉強するのが当然だ、という風土があったからできたのです。
こういう意識がないところで学校を作り、立身出世の役に立つと宣伝しても、うまくいきません。
高等教育にも力を入れましたが、海外から一流の先生を呼んできて、当時の総理大臣より高い給与を払い、英語やドイツ語、仏語で授業をし、10年ほど後に日本人で優秀な学生が出てきたらこれを留学させ、帰国後後継者にしてお雇い外国人と交代させました。
その後、日本は高等教育をすべて日本語でやるようになりました。この結果、日本人の英語は下手になりました。これは仕方ないことですが、その代わり、裾野は広がったのです。

学校の他にも、成人に対する教育が必要でした。そのために政府は、新聞・雑誌の育成に力を入れました。新聞人となったのは、旧幕臣層に多かったのです。彼らは討幕派よりも西洋の事情を知っており、日本の近代化に寄与したいと考えていました。しかし、彼らは政府に入るのを潔しとしなかったり、あるいは入ろうと思っても入れなかったりしたのです。そういう人々にとって、ジャーナリズムにおいて文明開化の一翼を担うということは魅力的な仕事でした。因みに、日本のジャーナリズムの在野的な性格の起源の一つは、こうしたところにあるのです。
徴兵もまた、成人教育の一つとしての意味を持っていました。農村出身の若者は、ここで初めて洋服を着てベッドに寝たのです。また、全国各地から集まる兵士のために、共通の用語が形成されていきました。

世襲制を無くし、身分に関係なく教育が受けられる、ジャーナリズムの成立等々、いわば国民のエネルギー動員政策は、大きな成功を収めました。国民の間には、爆発的な立身出世熱が生まれました。これまで、身分の壁に阻まれていた能力のある若者にとって、政府の政策は大きな啓示だったのです。
これだけのことがありましたから、大きな抵抗・反動もありました。例えば、戊辰戦争という戦争があり、政府の兵力は増大しました。兵力が大きくなると、どうしても対外膨脹の動きが出てきて、朝鮮との関係等はなかなか難しかったのですが、さきほど紹介した大久保利通のリーダーシップで対外膨脹を押さえ、国内の課題に集中させました。
しかし、とうとう起こったのが西南戦争です。新政府は、藩を廃止しただけではなくて、徴兵制で軍をつくることになり、世襲の武士を失業させたわけです。そこで、旧武士層の不満がたまり、維新の中心であった薩摩から、維新の英雄である西郷隆盛を中心とした西南戦争という反乱がおきたのですが、これが明治10年、1877年でした。
すなわち、伝統的な最強の侍「薩摩」と、農民も含めた新政府軍という構図だったのですが、戦争は最初の数ヶ月が山で、少し長引きましたが、新しい組織と新しい装備を持った新政府軍が圧勝しました。このとき、日本は内乱を抱えるというピンチだったわけですが、大久保は国内の産業の充実が重要ということで、九州で大きな戦争をやっているにもかかわらず、同時期に国内で博覧会をやっています。日本が平和に発展していることを内外に見せつけることを重視したわけです。

(4)自由民権運動と憲法制定

西南戦争の結果、軍事力による反乱はなくなりましたが、やはり政府に対する不満はあり、それが自由民権運動につながりました。息をつく暇もないほど大きな変革を次々と実施したわけですから、反対が出てきても無理もないわけです。

例えば、先ほどの徴兵制の導入は、国民全部を基礎にした軍を作るとなれば、農民は戦争をやらされるから嫌ですし、武士は仕事をとられるので嫌なわけです。そうした不満を持った人たちは、軍事力では政府に勝てないので、言論戦、自由民権運動に走ったわけです。これは大変重要な運動で、農民も政治に参加することになったわけです。また、新聞が発達し、情報網が整備されたことで、重要な政治的争点がたちまち全国に伝わるようになりました。
そういうわけで、憲法や議会を作れという声が出てきて、反政府運動が広まり、政府はこれに対して弾圧もしましたが、自らも前向きに取り組んで憲法をつくったわけです。1889年に憲法を作り、その前に内閣制度も作っています。

(5)議会政治の定着

日本の戦前の憲法は、一見、天皇が強いように見えますが、実は議会も強いものでした。議会に国民の権利は現れるのです。非常に保守的な憲法と言う人もいますが、国民の権利はかなり確固としたものとして与えられ、国民の代表である下院は予算を否決する権利がありました。1889年の憲法発布の翌年の1890年に、最初の衆議院選挙が行われ、最初の議会が開かれたのですが、これが明治23年、すなわち明治維新からわずか23年後でした。

たしかに、当時の有権者は数も少なく、男性のみですが、皆議会が開かれたといって非常に張り切って投票にいきました。当時、諸外国、西洋諸国はこれを非常にシニカルに見ておりました。「西洋ではない国に議会ができるのか」といって見ていたのですが、できたわけです。その後の何度かの選挙の間には、政府側が激しい干渉をしたこともありましたが、概して、議会は順調に推移し、議会が始まった1890年からわずか9年で野党の内閣、政党内閣ができているのです。

わたしはJICAの理事長として世界中の多くの国を見てきていますが、民主的な発展を進めるのも仕事の一つです。国民の声が円満に政治に代表されるようにと願っています。 
ただし、選挙があり、議会があっても、選挙の結果、円満に政権交代が行われることは極めて稀です。政権交代が円満に行われるのは大変難しいことですが、日本は1890年に成し遂げました。日本の憲法はドイツの憲法をまねたもの、と言われていますが、実は、ドイツの憲法は第一次大戦までできていなかったのです。
その少し後ですが、東北地方の戊辰戦争で負けた側からも総理大臣が誕生しました。選挙があれば、どの地域も同じように代表を出し、一票は一票という時代ができたわけです。

国民の参加を広げたことが、国民の力の結集に繋がり、その後の日清戦争や日露戦争での勝利につながりました。

因みに、日露戦争でロシア海軍として参戦した軍艦のひとつが、1908年最初の日本人移民をサントス港まで乗せた笠戸丸(かさとまる)です。戦争末期に拿捕したロシア船籍名KAZAN(カザン)が笠戸丸となりました。ペルー、メキシコ、そしてブラジルへと移民を乗せて運び、日本人移住史に燦然と輝く名を遺す船でしたが、1945年8月太平洋戦争に参戦したソ連軍の空爆で沈没致しました。

歴史というのは、ガラッと大きく変わるというよりは、段々明治維新の色が薄れ、同時に次の時代が始まってくるということではあるものの、明治維新というのは、短い間に大きな変化を成し遂げた時代でありました。

(6)明治期における日本人移住とその意義

こうした明治期から始まる大きな動きに、日本人移住ということがございました。日本人移住という側面から、明治期を捉え、その意義についてお話をしたいと思います。

1868年4月11日、徳川幕府は本拠地であった江戸城を明け渡しました。そのわずか2週間後4月25日に日本人初の集団移住が始まりました。行先はハワイ。まだアメリカ合衆国に併合される前のハワイ王国でした。サトウキビ栽培の労働者としてのデカセギでした。
まさに1868年明治維新と共に日本人の移住が開始されました。

日本人労働者は、ハワイを経由して北アメリカの西海岸に渡りましたが、その後米国からの移住制限がかけられます。ほぼ同じ頃、ブラジルは労働者を求めていました。19世紀後半、多くの地域から移住者がやってきました。移住先を求める日本と労働者を求めるブラジル、ここに両者の思惑が一致し、1908年日本人移民がブラジルへ渡ることとなります。

先にお話しをした明治という時代。1912年(大正元年)、後の総理大臣となる26歳の石橋湛山は、「明治の最大の事業は、日清、日露といった戦争での勝利や植民地の拡大ではなく、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革をおこなったことにある」と述べています。私も強く共感するところです。偉大だったのは戦争での勝利ではなく、維新からわずか30年余りで勝利できるような国力を蓄えたことです。
つまり維新から内閣制度の創設に関わる変革は、積極的に国を開き、西洋諸国と対峙するために国民すべてのエネルギーを動員するべく、既得権益を持つ特権層を打破した民主化革命であり、人材登用革命であったと言えます。 
国民のエネルギーの発露という意味では、まさにハワイを嚆矢とし、北米、中南米、アジアと新しい文明社会への建設を日本人移民の先達が他国からの移民の方々と協働で担った、ということもその一つだと言えると思います。
横浜にある私どもの海外移住資料館や、サンパウロにある「ブラジル日本移民史料館」の基本理念は、「われら新世界に参加す」です。日本からの移住者が、欧州、中東、アフリカから来られた移住者と共に、新しい文明の形成に重要な役割を果たした参加者であると文明史的な意味づけを行っております。
これは、国立民族学博物館の館長であられた梅棹忠夫氏が、ブラジルにおけるドイツ移民150周年の基本理念として掲げられた「われらはこの地を信じてきた」と比較し、日本人移民の意味付けを行ったものです。
明治維新における国民の自由なエネルギーの発露として、日本人移民は、新天地で世界の様々なところからやってきた方々と一緒に、新しい社会・文明の形成に参画していった、と言えるかと思います。

もう一つ触れておきたいのですが、初期の移住史において特異な動きをした、榎本武揚を紹介します。榎本は、幕臣として明治新政府に抵抗しました。江戸城の無血開城が行われた後、函館にある五稜郭を占領し、明治新政府と戦います。
新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘でした。抵抗もむなしく、榎本は責任を取り、自殺を覚悟しました。しかし、その時、海洋法に関する当時の貴重な書籍が戦火で失われるのを避けるため、新政府軍にそれらの書籍を贈りました。書籍を受け取ったのは、敵方であった後の第二代総理大臣黒田清隆でした。旧幕府軍榎本は破れ、2年半投獄されますが、敵将であった黒田の尽力により助命され、明治政府に仕え、駐露、駐清特命全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣等を歴任しました。
また、長年、海外殖民への関心を抱き、メキシコへの殖民を推進しました。事業は失敗に終わりましたが、幕末の天才の一人でありました。この後、中南米各国への集団移住が開始され、日本人の渡航がいっそう盛んになるきっかけをつくったことになります。

(7)まとめ

終わりに、明治国家を作った人たち、特に明治11年(1878年)までのリーダーだった大久保利通、そのあとの伊藤博文というのは、卓越したリーダーであり、日本を開いていったわけですが、その骨格は何か、一番の中心は何かというと、私は、自由主義革命、民主化革命、能力主義革命であったと思っています。
自由主義革命というのはどういうことかというと、江戸時代には色々なことが制限されていて、西洋の学問を勉強してはいけない、身分の差を越えてはいけない、ということだったわけです。
これが、能力次第でどこにでも行ける社会を作りたい、誰でも勉強して能力を発揮すれば出世できる、というのは、大変国民へのアピールとなり、やる気のある国民のエネルギーが沸騰するように沸いて出たわけです。
これに対して、明治維新を薩長と幕府の争い等と捉えると、旧幕府側であった東北から総理大臣も出たこと等の説明もつかないわけです。皆が、西洋と対抗するために、一緒になって立ち上がろうという目標のために、自由化、民主化を進め、その結果、能力のある者なら誰でも上に行けるという体制を作っていったわけです。
明治国家が完成した頃、そうした自由化、民主化、能力主義が薄れ、だんだん固定化し、そうしたエネルギーが阻害されるようになったというのが、次の時代の後退につながったと思うのですが、それについては今日はやめておきます。

こうした中でも重要だと思うのが、学問の自由であります。緒方塾洪庵の適塾について触れたように、彼らは競ってオランダ語の本を読んだわけです。適塾には、辞書が一冊しかなかったので、それを交代で使い、競ってオランダ語の本を読む。

また、明治になってからはみんなに教育の機会、立ち上がるチャンスを与える。こういうことを明治政府は先頭に立ってやっていました。高いお金を出して外国から先生も呼んできていました。
途上国で子供を勉強させるのは簡単なことではありません。子供は労働力ですから。これをやっていったことが日本の発展の基礎です。

昨年から明治維新150周年であることを記念して、JICAは開発大学院連携という取組みを始めました。途上国のエリートに日本に留学してもらい、法学でも経済学でも領域は何でもいいのですが、併せて日本の近代化の歴史も勉強してもらう、日本がどこで成功したか、失敗したかをよく学んでいただき、その国の役に立てていただこうというものです。
これは安倍首相も大賛成だということで、我々も力を入れてやっています。もちろんブラジルからも来ていただいて、それぞれ適切な大学院で、授業を受けていただいています。

そして、この日本国内での開発大学院連携に呼応する形で、ここサンパウロ大学で「フジタ・ニノミヤチェア」を開講いたします。
「フジタ・ニノミヤチェア」では、ブラジルひいては中南米地域の発展を支えるリーダーとなる人材を育てます。日本に招き、欧米とは異なる日本の近代化経験と、戦後の他国への開発協力の実施国としての知見の両面を学んでもらいます。さらに、日伯関係に関する研究も行うことにより、それぞれの母国の一層の発展および日伯関係の深化に効果的に役立てていただく機会を提供します。
これは、日本の歩みを学び、日本を知るプログラムでもあります。そして、このプログラムで学んだ人々が、それぞれの母国で、知日派・親日派のトップリーダーとして活躍し、両国間の関係が中長期的に維持・強化されることを期待します。両国間の関係強化はグローバル社会においても重要な役割を果たし、世界へのリーダーシップを発揮できる存在として求められることでしょう。

日本は教育で立国した国ですし、西洋以外で近代化に最も成功した国です。また、日本はODAでも一番成功した国です。もちろん、近代化やODAで失敗に基づく教訓もあります。それらも含めた経験・知見の蓄積という観点から、途上国の発展という問題では、日本がリーダーであるべきだと考えています。開発の研究にはイギリスに行く人が多いのですが、イギリスより日本に来て勉強していただきたい。

5.最後に

2017年、JICAは「信頼で世界をつなぐ」という新たなビジョンを定めました。信頼は、日本の国際協力の根幹をなす概念です。
常に相手の立場にたって共に考える姿勢で、国内外の幅広いパートナーとの信頼を育む。人や、国、企業が持つ、さまざまな可能性を引き出し、人々が明るい未来を信じ、多様な可能性を追求できる、自由で平和かつ豊かな世界を築いていく。
そして、人びとや国同士が信頼で結ばれる世界を作り上げていくことを、JICAは目指していきます。

ヨーロッパ、中東、アフリカ、米州、アジア、そして日本から、世界のさまざまなバックグラウンドを持った多くの人々が集まり、信頼で結びついた、このブラジルの地で、「フジタ・ニノミヤチェア」を開始します。

このプログラムが多くの方々に支えられ、フジタ、二宮両氏の日伯関係強化、日本と中南米の友好親善にかける思いが、末永く継承されることを念じてやみません。

以上