日本パラグアイ外交関係樹立100周年記念式典での理事長講演「パラグアイと日本の近代化」【於:パラグアイ共和国 アスンシオン市 日本パラグアイ人造りセンター】

開催日:2019年11月8日
場所:パラグアイ共和国 アスンシオン市 日本パラグアイ人造りセンター

1.はじめに 御代替わり

本年は日本パラグアイ修好100周年及び技術協力協定締結40周年の年となり、この記念する年にパラグアイを初めて訪れることができ、また、両国が大変良好な関係にあることを認識し大変うれしく思っております。
日本の近代化の経験がパラグアイの皆様に何か参考になるのではないかと思い、本日この講演をさせていただきます。

日本では、世界の多くで使われている西暦と同時に、和暦と呼ばれる元号も使われています。そのときの天皇が即位して何年目、という意味です。本年(2019年)5月1日に平成天皇が退位されるとともに、新たな天皇が即位され、元号が「平成」から「令和」に変わりました。少し珍しいと思われるかもしれませんが、以前はこのような仕組みは世界中にありました。それが徐々に無くなっていき、今では日本だけではないかと思います。約200年ぶりに天皇陛下が譲位され、歴史的な皇位の継承がつつがなく行われました。

先の10月22日には重要な儀式「即位礼正殿の儀」が行われました。これは、皇位継承を公式に国内や諸外国へ披露する儀式です。三権の長や47都道府県知事などの各界代表、外国元首ら1,999人が参加され、うち、外国からは191カ国・機関などから423人が参列しました。パラグアイからはウゴ・ベラスケス副大統領にお越し頂きました。私も参列致しました。

天皇陛下は天皇の代替わりを象徴する調度品「高御座(たかみくら)」に立ち、即位を内外に宣明され、「国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望します」とお言葉を結ばれました。つまり人類の福祉と平和の繁栄を願われたわけです。

天皇制がいつから始まったか、ということですが、科学的な証拠で辿れる範囲でも、西暦400年代には既に天皇は日本のリーダーであったことが分かっています。つまり、1700年前に天皇家は始まりました。「高御座」はもう少し後、およそ700~800年代から用いられてきました。日本は古い伝統を大切にする国であります。現在のものは1915年、天皇陛下の曽祖父である大正天皇が同じく即位礼で使われたものです。その「高御座」の横には、皇后陛下がお立ちになる「御帳台(みちょうだい)」が置かれます。

新しい「令和」という元号は、万葉集という歌集から採られました。「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております。万葉集は、700年代、つまり1200年余り前に編纂された日本最古の歌集で、天皇や皇族だけでなく、農民や大道芸人まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が4500首以上収められています。大部分は恋の歌です。また、今の中学生であっても読んで感動することができる歌集です。

日本の天皇が他の国の王などと異なるのは、権力を握るのではなく、文化の象徴であったことです。

天皇家は代々中南米諸国について殊の外思い入れを強く持たれておられます。上皇上皇后両陛下、秋篠宮皇嗣殿下、眞子内親王と天皇家3代に渡り、パラグアイ国を訪問されていることからも親しみを持たれていることを感じます。

また、既にご承知の方もいらっしゃるかと存じますが、元JICA理事長、国連難民高等弁務官でもあった緒方貞子さんが先月お亡くなりになりました。1990年代に大活躍された方でした。たくさんの難民が発生した時代、前例のない課題に大変リーダーシップを発揮されてご活躍された方です。国際社会の平和に向け、多大なる貢献と活躍をされた方でした。JICA理事長としても、「人間の安全保障」の実践をはじめ、日本の国際協力を長年にわたり牽引されました。2007年にはパラグアイを訪問され、JICAのパラグアイにおける経済社会開発の様々な分野での協力の功績があったとして、パラグアイ政府より「グランクルス国家功労勲章」を授与されております。私が本日嬉しかったのは、パラグアイ政府から、その緒方さんと同じ勲章を頂いたことです。そのご功績と在りし日のお姿を偲びつつ、安らかなる眠りをお祈り致します。

2.日本の近代化

(1)明治維新

さて、本日は、日本が近代化するにあたって重要な起点となった明治維新のお話を致します。明治維新は英語ではMeiji Restorationと訳されています。このRestorationと言うのは、古いものへ戻すという意味です。今から151年前、1868年に大きな政治的変化が起こりました。当時はそれを王政復古と呼んでいました。それまでは徳川氏が支配していた時代が260年続いており、徳川氏の時代が終わるだけでも大変なことですが、それだけではなく、700年続いた武士、侍の時代が終わることでもありました。実際に起きた変化から考えると、Revolutionと言った方が適当ではないかと思います。

当時、主導して徳川氏を倒したのは、薩摩藩と長州藩です。二つの地方政権が中央政権を打倒したのです。ところが、それだけであったらただの政権交代ですが、新政府はそのわずか3年後に、日本に約300あった藩というものをなくしてしまいました。なぜなら、イギリス、フランスといった国々に対抗するためには、国を一つにまとめなくてはならないと考えたからです。それだけではなく、薩摩藩も長州藩も、これをリードしているのは侍でしたが、この侍という身分もその後5年間で廃止しまいました。江戸時代は、士農工商という4つの身分に分かれていましたが、国民が身分で分かれていては、西欧に対抗できず、国民の力を結集しなければならないと考えたからです。

その後、新政府は着実に政治的な近代化を進め、1885年、近代的な内閣制度を作りました。明治維新より18年、当時44歳で総理大臣になった伊藤博文という人は、侍の一番下の身分である足軽の出身であり、江戸時代であればとてもそのような地位には就くことができない人でした。つまり、身分に関わらず、能力がある人は上に行けるという仕組みができた訳です。

それから1889年(明治22年)に憲法を制定しました。西洋諸国以外で憲法ができた国は実はトルコですが、定着しませんでした。日本は、西洋諸国以外で憲法が制定された事実上最初の国です。

明治維新の特徴の一つには、この劇的な変化の中で亡くなった方の数が他国における革命と比べて圧倒的に少ないという点が挙げられます。幕末からこういった政治制度が整うまで、当然流血を招く事態がありましたが、亡くなった人の数は3万5千人程度と言われています。これは非常に少ない数です。フランス革命は、ナポレオン戦争まで含めると約300万人、ロシア革命も、スターリン体制下の粛清まで含めると数千万人が亡くなっています。中国革命も毛沢東の下、数千万人がなくなっています。
どうして明治維新の場合は犠牲者がずっと少なかったのでしょうか。これは明治維新を考える上で非常に重要な点です。お互いに国内で争っていてはいけない、力を結集して西洋諸国に対抗しなくてはならないという思想がそのようにさせたのです。

(2)江戸時代の遺産

こうした明治時代の歴史をお話しする際、その前の江戸時代についてご説明する必要があります。江戸時代の政治のユニークな点は、権威と権力が分かれていたことです。権威は京都の天皇にあり、権力は武士が持っていました。江戸時代、地方にはおよそ300の領地があり、そこに300人の大名がいました。

こういった体制を政治学もしくは歴史学では封建制と呼びますが、江戸時代の体制は将軍が非常に強い権力を持っていました。参勤交代といって、1年おきに東京に住み、行列をなして国に帰って、1年地元に住むということを、大名には命じており、これを行うためには非常にお金がかかっていました。また、大名の妻と後継ぎは東京に住むことになっていました。これは幕府が大名を統制するための手段でした。
一方で、大名も地元においては権力が強く、お城を建て、城の周りに住むよう侍に命じていました。ここで生まれたのが、消費経済です。それまでは、侍は農業も行っていたものの、以後は生産活動を行わずに消費者となり、生産者は地方に住むという分業体制が発生し、城下町が誕生しました。

もう一つ江戸時代で重要なのは、鎖国をしていたことです。鎖国といっても朝鮮、清国、オランダとは関係を継続していました。貿易を許していたのはオランダだけでした。スペイン人やポルトガル人は、熱心に布教するカトリックであるとして当時の日本では危険視されていました。一方、オランダ人はプロテスタントであったため、長崎に出島という隔離するための島を作り、その中でのみ貿易が許可されていました。

260年の間、これは大変驚くべきことですが、日本ではほとんど戦争がなく、非常に平和でした。平和になった結果どうなったかというと、日本は大変豊かになりました。戦争がなくなり、農民が安心して生産に取り組むことができるようになった結果、米の生産量が増えました。その証拠に、江戸時代初期の日本の人口は1,200~1,300万人だったのが、わずか100年ちょっとのうちに3,100万人と、2倍以上になりました。

平和になった結果、商業も発達しました。大阪に市場ができ、全国の物品がここで取引されました。参勤交代も、元来は大名統制の手段でしたが、その副産物として、交通が盛んになり、江戸の文化が容易に地方に伝播するようになり、日本全体に共通の文化が生まれるようになりました。

また、識字率が向上しました。江戸時代の初めは、武士の中でも字を読めない人が大勢いましたが、地域の小さな学校で勉強し、江戸時代の後半には、成人男性の約半分、成人女性で3割は読み書きができるようになったと言われています。これは伝統社会では極めて高い、おそらくはその当時、世界で最も高い識字率であったと考えます。

加えて、文化が大いに発展し、成熟しました。日本の文化で世界に知られている歌舞伎や浮世絵は、この時代に中産階級の芸術として生まれたものです。多くの国で、文化は王家や貴族が中心となり形成しました。しかし、日本のそれは中産階級が主導したものでした。その中で当然学問も発展し、徐々に日本は一つだという意識も生まれてきました。それまでは自らのことを薩摩藩の人間、長州藩の人間など、「藩」の人間であると認識していた人々の間に、日本は一つだという意識が高まってきた訳です。

先ほど交通が発達したと申し上げましたが、江戸時代には、女性が一人で旅行することができました。このようなことができる安全な国は、当時他にはありませんでした。

これが、江戸時代の「平和の配当」、つまり良かった部分です。ところがこの時代は良いことばかりではなく、悪いこともあったわけです。

米を経済の軸としていたために、米に頼り、それ以外の産業が十分に発展しなかったのです。また、ヨーロッパのように、ブルジョワの発展、税金の聴取、政治参加の要望の高まり、議会政治の発展、という一連の流れが日本では起こらなかったのです。
学問の自由も十分ではありませんでした。当時は儒学が正しい学問とされており、それ以外の学問は禁止されていました。そして政府を批判することができず、政治的に非常に不自由でした。その上、政治に参加するのは武士の中でもほんの一握りの人たちだけでした。
また、軍事技術が非常に停滞しました。17世紀の初めの日本は、世界最大の軍事大国でした。日本にあった鉄砲の数を推計すると、世界のどこよりも多かったのです。200年間、つまり1600年から江戸時代の後半まで、武器の水準はほとんど変わっていません。
また、1600年頃には、日本人はインドネシアやフィリピンまで行っていたのですが、鎖国に伴い航海術も発展せず、日本の周りしか航海できなくなりました。この間、ヨーロッパは航海術を発展させています。つまり、これは非常に日本が弱くなったということです。

このように、江戸時代は、様々なものが発展しましたが、同時に停滞もあったのです。今日(こんにち)、日本では江戸時代は良かったという人もいるのですが、江戸時代のマイナスの面も我々は直視しなくてはならないと思っています。

その中で非常に大きな意味を持ったのは、小さいけれども、海外に窓口が開いていたということです。その窓口とは蘭学です。その当時、日本の解剖学の書籍は中国から渡ってきた書籍をもとにしており、誤った記載がされていたようです。オランダが持ち込んだ解剖学の書籍は非常に正確で、解剖に接した日本人がその正しさを認識することとなりました。洋学の出発点となったのです。

大阪に緒方洪庵という蘭学・医学者が開いた適塾という塾がありました。ここで学んだ人の中からは、有能な人が沢山輩出されました。

大村益次郎は、長州藩の軍事指導者として天才的な働きをした人です。大村という人はオランダ語を勉強して、書物のみの理解から蒸気船を作りました。この大村が後に日本の徴兵制を作った元祖です。彼は武士というのは戦争の役には立たないということを痛感していました。なぜなら、武士というのは身分でできています。戦争は能力主義を以って組織された軍隊でなくてはできないという考えの下、身分制を止めて、能力主義の軍隊を作ろうとした人です。これは明治維新が実現した理由の一つです。

それから、橋本佐内は、江戸時代の大名の活動に非常に大きな影響を与えた人です。

福沢諭吉は、日本に行ったことがある人はご存じかもしれませんが、1万円札の人です。彼は、日本の近代化における知的影響力という点では第一の人物です。慶應義塾大学を設立した人でもあります。30歳代の福沢は、ベストセラーとなった「学問のすすめ」や「文明論之概略」を出版しました。これらで、福沢は西洋文明との対比の中で日本文明の特質を捉え、また日本政治の特質を鋭く指摘し、日本の発展のために何が必要であるかを真正面から論じました。福沢は米国へも留学しています。

当初は、オランダ語を外国語として学んでいた福沢ですが、横浜の見物に出かけた際に読めず話されても理解できない言語があったことに衝撃を覚えた福沢は、その後その言語が英語だということを理解し、猛烈に勉強し英語を習得したと言います。その上で咸臨丸という船で米国へ留学したわけですが、彼が米国で最初に米国人へ質問をしたことは、「ジョージ・ワシントンの子孫はどこにいるのか」という内容であったと言われています。アメリカにとってのジョージ・ワシントンとは、日本にとっての徳川家康のようなものと考えたわけです。ところが、アメリカで実際に聞いてみると誰も知らない。福沢はそのときに、代々、王が治めるのではなく、国民がリーダーを選ぶ政治があることを知りました。こういった経験を経て、福沢は学問を勧め、西洋の制度を受け入れるようになりました。最初、日本人は西洋の軍艦に驚いたのですが、軍事の基礎には強い経済があり、経済の基礎には科学技術や合理的なものの考え方、批判精神がある。こういったことを彼らは洋学から学んでいったのです。福沢という人物は大変立派な人でした。

このように、近代化に向かって日本が直面していた課題は日本だけのものではありません。西洋と非西洋との違いは何か、非西洋世界の近代化は可能かというところまで広げて考えれば、世界史的な意味を持つ課題なのです。

さて、幕末に何故長州、薩摩が勝ったかということは、簡単に言えば、江戸幕府は強大だが、全て身分制度でできており、身分の高い人が司令官、低い人が兵卒だったが、それではだめだということです。薩摩・長州はこれを変えて、志のある人は皆集まれと言って、長州は医者であった大村益次郎を軍の最高司令官に起用する等、武士ではない人材から成る軍隊も作っています。人材抜擢ができたのです。そこに西洋の進んだ武器を買ってきて武装させて、これで幕府を打ち破りました。

(3) 維新政権の確立

さて、こうやって新しい政府が1868年にできたのですが、この新しい政府は、早速そこで「五箇条のご誓文」という、天皇自らこれからこういう方針で政治を行うということを公表しました。そのうちの特に二つが重要です。

一つ目は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(第一箇条)、つまり、独裁は行わず、みんなで議論をして決めようということです。
二つ目は「知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし」(第五箇条)、つまり開国し、優れた知識を外国から取り入れ、大いに国を発展させていこうということです。

さらに、彼らが天皇の権威でもって実施したのが、廃藩置県、すなわち300あった藩を300の県にして大名を東京に呼び、その代わりに中央が任命する役人を各県に配置することでした(1871年のことです)。つまり、それまでは世襲のリーダーが地方にいたわけですが、中央政府が任命する役人が地方にいくことになりました。中央集権革命です。

これができたのは1871年8月なのですが、ところが驚くべきことに、さらにそこから半年もしないうちに、岩倉使節団が海外に出ます。廃藩置県というのは、何百年もその地方のリーダーだった支配者を辞めさせて東京に出てこさせる大革命だったわけですが、それによる国内の動揺が収まらないうちに、政府要人の100人を超えるリーダー が岩倉使節団で世界を見に行ったわけです。岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら、当時の政府の中枢の半分ぐらいの人間が、長い人で1年10カ月も外遊に行ったのです。

岩倉使節団の成果は殖産興業政策でした。軍事よりも産業を興すことが大事だと認識したのです。それ以前の初期殖産興業政策は工部省を中心としたもので、鉄道や鉱山など、国内の政治的経済的統一を推進するためのものでした。

より本格的な殖産興業政策は使節団帰国後に始まります。その中心となったのは、大久保であり1873年創設の内務省でした。強兵のためにはまず富国、そしてそのためには最初に産業基盤を整備しなければならないことが理解され、そのための最初のリスク、創業者負担というものは、国家が担おうとしたのでした。
農業では、官営模範牧場、官立農学校、疎水事業などがその例です。大久保利通は自ら朝市を歩いてよい種や苗を探し、帰国後には私営の農業学校を開いて農業教育に務めたほどでした。
工業では、使節団以前から着手されていましたが、官営の模範工場がいくつか建設されました。

大久保が自身の子供を連れて行ったように、この使節団は留学生も伴ったわけですが、これからは女子教育も重要だということで小さな女の子も連れて行っています。40人の留学生のうち5名が6歳-14歳の女の子でした。そのうちの6歳の女の子は、高校、大学と留学を終えて、次の世代では女性も学問が必要だと考え、帰国後に津田塾という有名な女子大学を作りました。その頃、女性にも勉強をさせなくてはという気づきがあったのは立派なことだと思います。

使節団は約1年半という長期外遊だったわけですが、これはなぜか。それは西洋の本物を見たい、どういうところか見たいということだったわけです。今後の新しい国家の方向の模索でした。彼らの希求はそれほど切実だったのです。この外遊を通じて、彼らは欧米の力をまざまざと見せ付けられ、日本の遅れを痛感し、恥ずかしいと感じ、何とかこれを克服したいという痛烈な願望にとらわれるようになったのです。

そうした驚くべきことを当時の日本はやった訳ですが、外に行った人以外も共通の目標を持っていました。その最大のものは教育です。例えば、日本が重視したのは初等教育でした。多くの国において教育というのは高等教育から、王や貴族が家庭教師を雇ったり、大学を作ったりして始めるのです。ところが、日本は小学校から作りました。これは大変驚くべきことです。子供みんなに勉強させようということをやったのは、多分日本が最も進んでいました。当時、教育を行うには地元の負担が多く、また子供の労働力が学校に奪われるだけなので、全体として高価なものでした。にもかかわらず、学校は非常な勢いで普及しました。急速な初等教育の普及を可能にしたのは、江戸時代の寺子屋という伝統があったからです。子供はみんな学校に行って勉強するのは当然だ、という風土があったからできたのです。こういう意識がないところで学校を作り、立身出世の役に立つと宣伝しても、うまくいきません。

高等教育にも力を入れましたが、海外から一流の先生を呼んできて当時の総理大臣より高い給与を払い、英語やドイツ語、仏語で授業をし、10年ほど後に日本人で優秀な学生が出てきたらこれを留学させ、帰国後後継者にしてお雇い外国人と交代させました。その後、日本は高等教育をすべて日本語でやるようになりました。この結果、日本人の英語は下手になりました。これは仕方ないことですが、その代わり裾野は広がったのです。

世襲制を無くし、身分に関係なく教育が受けられる、ジャーナリズムの成立等々、いわば国民のエネルギー動員政策は大きな成功を収めました。国民の間には、爆発的な立身出世熱が生まれました。これまで身分の壁に阻まれていた能力のある若者にとって、政府の政策は大きな啓示だったのです。

これだけのことがありましたから、大きな抵抗・反動もありました。そのような中で、とうとう起こったのが西南戦争です。新政府は、藩を廃止しただけではなくて徴兵制で軍をつくることになり、世襲の武士を失業させたわけです。そこで旧武士層の不満がたまり、維新の中心であった薩摩から維新の英雄である西郷隆盛を中心とした西南戦争という反乱がおきたのですが、これが明治10年。すなわち、伝統的な最強の侍「薩摩」と徴兵制で集められた農民を含む新政府軍という構図だったのですが、戦争は最初の数ヶ月が山で、少し長引きましたが、新しい組織と新しい装備を持った軍が圧勝しました。
このとき日本は内乱を抱えるというピンチだったわけですが、大久保は国内の産業の充実が重要ということで、九州で大きな戦争をやっているにもかかわらず、産業の大切さを示すため、同時期に国内で博覧会をやっています。
こうして、西南戦争で「百姓の軍隊に負けるはずがない」と思っていた薩摩(士族)は負けました。それからどうなったかと言うと、皆、武力で政府に反乱しても無理だということが分かりました。それではどうするか。言論で反発するようになる。その結果、自由民権運動という、自由や民主主義を求める運動につながっていきます。

(4)自由民権運動と憲法制定

西南戦争の結果、軍事力による反乱はなくなりましたが、やはり政府に対する不満はあり、それが自由民権運動につながりました。息をつく暇もないほど大きな変革を次々と実施したわけですから反対が出てきても無理もないわけです。

例えば、先ほどの徴兵制の導入は、国民全部を基礎にした軍を作るとなれば、百姓は戦争をやらされるから嫌ですし、武士は仕事をとられるので嫌なわけです。そうした不満を持った人たちは、軍事力では政府に勝てないので言論戦、自由民権運動に走ったわけです。それまでの反政府運動は、元武士と元武士で争っていたものが、自由民権運動によって、これは大変重要な運動で、農民も政治に参加することになりました。彼らのうちのエリートは、本を読み勉強して、自由民権運動を始めました。つまり、国中が政治に参加できるようになったのです。また、新聞が発達し、情報網が整備されたことで重要な政治的争点がたちまち全国に伝わるようになりました。

そういうわけで、憲法や議会を作って国民の声を反映させろ、という声が出てきて、反政府運動が広まり、政府はこれに対して弾圧もしましたが、自らも前向きに取り組んで憲法をつくったわけです。1889年に憲法を作り、その前に内閣制度も作っています。議会には上院と下院があり、下院には普通の者が参加できるようにしました。権力を持っているものが政治参加の枠を広げるのは、世界的に見ても珍しいことです。国民の声が入っていなければ、強い国はできない、と考えた訳です。

(5)議会政治の定着

日本の戦前の憲法では、一見天皇が強いように見えますが、実は議会も強いものでした。議会に国民の権利は現れるのです。国民の権利はかなり確固としたものとして与えられ、1889年の憲法発布の翌年の1890年に最初の衆議院選挙が行われ、最初の議会が開かれたのですが、これが明治23年、すなわち明治維新からわずか23年後でした。

1889年にできた日本の憲法は、憲法学者からはドイツの憲法に近いと言われていますが、私はそうは考えていません。日本の憲法は、どちらかと言えば比較的イギリスに近いものでした。下院に該当する衆議院に大きな審査権を与えているのが特徴です。何を審査するかというと、予算を審査するのです。これが大きなポイントで、ドイツは下院にその権限を与えませんでした。

そして、1890年に初めて衆議院選挙が行われました。たしかに、当時の有権者は国民の3%と数も少なく、男性のみでしたが、皆議会が開かれたといって非常に張り切って投票にいきました。議会を開いてみたところ、驚くべきことに野党の方が多いという結果になりました。政府は、野党が多い中でどうやって予算を通すかに苦慮し、野党と交渉したり妥協したりしながら、議会を運営していきました。衆議院が相当強い憲法にもかかわらず、憲法が機能し、議会がきちんと運営されていった。これはなかなかのことです。当時、諸外国、西洋諸国はこれを非常にシニカルに見ておりました。「西洋ではない国に議会ができるのか」といって見ていたのですが、できたわけです。その後の何度かの選挙の間には政府側が激しい干渉をしたこともありましたが、概して議会は順調に推移し、議会が始まった1890年からわずか9年で野党の内閣、政党内閣ができているのです。

わたしはJICAの理事長として世界中の多くの国を見てきていますが、民主的な発展を進めるのも仕事の一つです。国民の声が円満に政治に代表されるようにと願っています。ただし、選挙があり、議会があっても、選挙の結果、円満に政権交替が行われることは極めて稀です。最近では、インドネシア、フィリピンなどがこれを達成しています。政権交代が円満に行われるのは大変難しいことですが、日本は1890年に成し遂げました。日本の憲法はドイツをまねたものと言われていますが、実はドイツでは第一次大戦まで円滑な政権交代はできていなかったのです。日本は1890年に議会が始まって2~3年で政党から大臣が輩出され、わずか8年で政党内閣が誕生しました。また、その少し後ですが、東北地方の戊辰戦争で負けた側からも総理大臣が誕生しました。選挙があればどの地域も同じように代表を出し、一票は一票という時代ができたわけです。

国民の参加を広げたことが、これは広い意味で、国全体を一つにしていこう、という制度が成功した、ということです。国民の力を結集しなければ西洋諸国に対抗できない、という考え方が日本の近代化の底にあり、非常に国を発展させてきたわけです。その結果が、その後の日中戦争や日露戦争での勝利につながりました。歴史というのはガラッと大きく変わるというよりは、段々明治維新の色が薄れ、同時に次の時代が始まってくるということではあるものの、明治維新というのは短い間に大きな変化を成し遂げた時代でありました。

(6)明治維新の意義

先にお話しをした明治という時代。1912年(大正元年)、後の総理大臣となる26歳の石橋湛山は、「明治の最大の事業は、日清、日露といった戦争での勝利や植民地の拡大ではなく、政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックの改革をおこなったことにある」と述べています。私も強く共感するところです。

偉大だったのは戦争での勝利ではなく、維新からわずか30年余りで勝利できるような国力を蓄えたことです。つまり維新から内閣制度の創設に関わる変革は、積極的に国を開き、西洋諸国と対峙するために国民すべてのエネルギーを動員するべく、既得権益を持つ特権層を打破した民主化革命であり、人材登用革命であったと言えます。

明治国家を作った人たち、特に明治11年、1878年までのリーダーだった大久保利通、そのあとの伊藤博文というのは卓越したリーダーであり日本を開いていったわけですが、その骨格は何か、一番の中心は何かというと、私は自由主義革命、民主化革命、能力主義革命であったと思っています。自由主義革命というのはどういうことかというと、江戸時代には色々なことが制限されていて、西洋の学問を勉強してはいけない、身分の差を越えてはいけない、ということだったわけです。

これが、能力次第でどこにでも行ける社会を作りたい、誰でも勉強して能力を発揮すれば出世できる、というのは、大変国民へのアピールとなり、やる気のある国民のエネルギーが沸騰するように沸いて出たわけです。

これに対して、明治維新を薩長と幕府の争いと捉えると、旧幕府側であった東北から総理大臣も出たことの説明もつかないわけです。皆が西洋と対抗するために、一緒になって立ち上がろうという目標のために、自由化、民主化を進め、その結果、能力のある者なら誰でも上に行けるという体制を造っていったわけです。

こうした中でも重要だと思うのが、学問の自由であります。緒方洪庵が大阪で開いた適塾について触れたように、彼らは競ってオランダ語の本を読んだわけです。適塾には辞書が一冊しかなかったのですが、それを交代して使い、競ってオランダ語の本を読む。

また、明治になってからはみんなに教育の機会、立ち上がるチャンスを与える。こういうことを明治政府は先頭に立ってやっていました。高いお金を出して外国から先生も呼んできていました。途上国で子供を勉強させるのは簡単なことではありません。子供は労働力ですから。これをやっていったことが日本の発展の基礎です。

(7)明治期における日本人移民とその意義

こうした明治期から始まる大きな動きのひとつに、日本人の海外移住ということがございました。日本人移民という側面から明治期を捉え、その意義についてお話をしたいと思います。
1868年4月11日、徳川幕府は本拠地であった江戸城を明け渡しました。そのわずか2週間後の4月25日に日本人初の集団移住が始まりました。行先はハワイ。まだアメリカ合衆国に併合される前のハワイ王国でした。サトウキビ栽培の労働者としてのデカセギでした。

その後、日本人労働者はハワイを経由して北アメリカの西海岸に渡りましたが、20世紀頃から米国への移住制限がかけられます。ほぼ同じ頃、中南米諸国は労働者を求めていました。移住先を求める日本と労働者を求める中南米諸国、ここに両者の思惑が一致し、日本人は南米に渡るようになりました。南米の方は日本人を温かく迎えてくれました。最初にペルーやブラジル、それが難しくなると、パラグアイが移民を受け入れてくれて、80年あまりが経ちます。

明治維新における国民の自由なエネルギーの発露として、日本人移民は新天地で世界の様々なところからやってきた方々と一緒に新しい社会・文明の形成に参画していったと言えるかと思います。

横浜にある私どもの海外移住資料館の基本理念は、「われら新世界に参加す」です。日本からの移住者が欧州、中東、アフリカから来られた移住者と共に、新しい文明の形成に重要な役割を果たした参加者であると文明史的な意味づけを行っております。

ここで初期の移住史において特異な動きをした、榎本武揚を紹介します。榎本は江戸幕府の幕臣として明治新政府に抵抗しました。江戸城の無血開城が行われた後、函館にある五稜郭を占領し、明治新政府と戦います。新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘でした。抵抗もむなしく、榎本は責任を取り、自殺を覚悟しました。しかし、その時、海軍や国際法に関する当時の貴重な書籍が戦火で失われるのを避けるため、新政府軍に贈りました。書籍を受け取ったのは敵方であった後の第二代総理大臣黒田清隆でした。

旧幕府軍榎本は破れ、2年半投獄されますが、敵将であった黒田の尽力により助命され、明治政府に仕え、海軍卿、駐露、駐清特命全権公使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣等を歴任しました。ロシア駐在終了時には、将来日本がロシアと戦争をするかもしれない可能性も考慮し、サンクトペテルブルクからウラジオストクまでを橇に乗って調査をしながら帰ってきたという、当時の天才の一人です。
実は、この榎本武揚が、この後中南米各国への集団移住が開始され、日本人渡航がいっそう盛んになるきっかけをつくった人物のうちの一人です。

(8)まとめ

ここまで、明治維新から日露戦争くらいまで触れました。日本人が西洋と対抗するために結束し、皆の力を集めて対応しようとした、その結果、清国やロシアにも勝つことができた、というお話をさせて頂きました。

その後日本は道を誤り、戦争を始め、戦争に負けました。パラグアイも1860年代に大きな戦争をして大きな被害を受けた訳ですが、我々も同じです。米国、英国、中国と戦ってひどい目に遭いました。戦争で負けたのが1945年、主権を回復したのが1952年です。

それから数年後に、また日本は南米に移民を送るようになりました。そのときに、日本の移民を温かく受け入れてくださった国の一つがパラグアイです。1950年代の終わりから、ラパス、イグアス等の移住地に多くの方が移って来られました。今でこそ日本は経済大国ですが、そのときはまだどうなるか分からなかったのです。その際に受け入れてくださった親切を我々は忘れません。

その後も我々は様々な形でパラグアイに協力することができ、とても良い関係を築くことができました。日本とパラグアイは地理的にはとても遠いです。しかし、パラグアイに協力している国の中で、日本は常に一番か二番です。また、海外協力隊の累計派遣数は、アフリカの某国に次いで世界で二番目に多いです。これは凄いことです。日本から距離もあり、人口もそれほど多くない国にこれだけ多くのボランティアが派遣されている、そのことだけでも、日本とパラグアイの間には特別緊密な関係ができている、と言っても良いのではないかと思います。

また最近、パラグアイ国籍で日系の方がJICA職員になりました。アジアを除くと、外国籍の職員は彼が最初です。これだけ密接な結びつきがあるのは、とても重要で嬉しい話であると思っております。

昨年から明治維新150周年であることを記念してJICAでは開発大学院連携という取組みを始めました。途上国の若者に日本に留学してもらい、法学でも経済学でも領域は何でもいいのですが、併せて日本の近代化の歴史も勉強してもらう、日本がどこで成功したか、失敗したかをよく学んでいただき、その国の役に立てていただこうというものです。これは安倍首相も大賛成だということで我々も力を入れてやっています。既にパラグアイからも来ていただいて、それぞれ適切な大学院で、授業を受けていただいています。

日本は教育で立国した国ですし、西洋諸国以外で近代化に最も成功した国です。また、日本はODAでも一番成功した国です。途上国の発展という問題では日本がリーダーであるべきだと考えています。開発の研究にはイギリスに行く人が多いのですが、イギリスより日本に来て勉強していただきたい。

3.最近の日パ関係

最近の日本とパラグアイ関係がとても太くて深いという話をしたいと思います。

2011年3月11日、日本は太平洋沖を震源とする大地震に見舞われました。多くの方々が家族を失い、家を失いました。そうした中で、世界中の方々からご支援を受けました。中でも、特筆するべきはパラグアイの皆様からのご支援でした。パラグアイ産の大豆100トンを使って100万丁の豆腐を作り、被害にあわれた方々にプレゼントするというものでした。その時に作られた豆腐のパッケージには、パラグアイ、日本の二つの国旗があしらわれ、「こころはひとつ パラグアイ国民は日本を応援します」と記載されています。

最終的には震災18か月後の2012年9月末で128万8,096丁に達しました。食べ物も不自由する中、被災された家族が分け合ってこの豆腐を食べられたと仮定すると、おおよそ300万人の被災者の方々にパラグアイの皆様の絆と想いが届けられたのだろうと思います。

この豆腐100万丁プロジェクトは、日本とパラグアイの密接な結びつきを象徴する出来事でありました。メディアでも大きく報道されましたし、中学校の歴史副教材にも掲載され、多くの日本人の知るところとなっています。

また、2011年からは都内の大きな公園でパラグアイフェスティバルが始まっています。在日パラグアイ大使館共催、外務省やJICAが後援するこのフェスティバルは、パラグアイの魅力を広く日本に伝えるための発信の「場」となっており、2万人以上の方々でにぎわいます。今年のフェスタにはウゴ・ベラスケス副大統領も参加いただきました。

もともと、パラグアイには青年海外協力隊を派遣しており、その派遣国実績数が全世界で第二位でもあり、市民レベルでの交流・関心が深まっていることを感じています。日本がパラグアイに強い愛着を感じていると同様に、パラグアイのみなさんが日本に親しみを持っていただいてることを大変誇りに思っております。豆腐のパッケージに記された、まさに「こころはひとつ」なのです。

4.最後に

我々のビジョンは「信頼で世界をつなぐ」です。JICAは、事業を実施する際に、相手方にとって何が必要か、ということを先方とよく話し合います。この方法は、世界の他の国々、例えば英国や米国、仏国などとは非常に異なっています。JICAは、Cooperationという言葉を使っていますが、他の国はAidとかAssistanceという言葉を用います。相手の立場に立って、共に考えていく。そのためには、相互の信頼関係、人と人とのつながりが重要です。

これができているのが、日本とパラグアイの関係です。我々は、既に培った基礎の上に、また新たなものを切り拓いていかなくてはなりません。世界はどんどん変わります。次に何が必要か、どこにどのようなインフラを作ればよりパラグアイの役に立つか、そういったことを共に考えてやっていきましょう、というのが我々のアプローチです。

それを支えてくださっているのが、日系人の方々、また、日系人をサポートしてくださっているパラグアイの方々です。そういった基礎がある限り、日本とパラグアイの関係発展に関しては間違いないと思っています。今後何が必要か、さらに相談しながら、既に良い関係が築かれていますが、それを更にアップグレードして、より良い関係を続けていきたい。修好100周年を機に、その覚悟を新たにしたところです。

常に相手の立場にたって共に考える姿勢で臨む協力により、国内外の幅広いパートナーとの信頼を育む。人や、国、企業が持つ、さまざまな可能性を引き出し、人々が明るい未来を信じ多様な可能性を追求できる、自由で平和かつ豊かな世界を築いていく。そして、人びとや国同士が信頼で結ばれる世界を作り上げていくことを、JICAは目指していきます。

以上