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農業大国に変貌したブラジル、その陰に日本の協力あり "奇跡の歴史"を描いた書籍をJICA研究所が出版へ

2011年2月8日

「不毛の大地」。ブラジル中西部に広がる熱帯サバンナ「セラード」はかつてこう呼ばれていた。だがブラジル政府が国家プロジェクトとして開発に着手してからわずか四半世紀、このやせた土地は南半球最大の農業地帯に生まれ変わった。20世紀の農学史に輝く偉業と賞賛されるほどの大成功を収めたわけだが、その舞台裏で日本の協力や日系移民が大きな役割を果たしたことはあまり知られていない。

「セラードの面積は日本の国土の5.5倍。1970年当時、こんな広大な不毛地帯が農業地帯へと変貌していくとは想像だにできなかった。しかしいったい、いつ、誰が、どこから、どんな形で、セラード開発の最初の難関をブレイクスルーしたのか、強い関心を持った」

セラード開発に自身も17年携わったという本郷豊・JICA客員国際協力専門員は、かねてから抱いていた思いをこう吐露した。

20年に及ぶ日本の支援は「ありがたかった」

JICAがこれまで手がけた数多くのODAプロジェクトの中でも、ブラジル政府が主導したセラード農業開発事業への協力はとりわけ異彩を放っている。

大規模な技術協力と資金協力が並行して実施された。後者の資金協力は「日伯(ブラジル)セラード農業開発協力事業」(プロデセール)と呼ばれるもので、期間は約20年と長く、また投じた資金も日伯双方で総額684億円に及んだ。

開発の最前線では多くの日系人が事業に参加した。入植者としてセラードに足を踏み入れ、農地開拓に懸けた。そして幾多の苦難を乗り越えたいま、地平線の彼方まで大豆畑やトウモロコシ畑が望めるようになった。栽培されている作物も多様だ。

セラード開発のこうした知られざる歴史をJICA研究所では、「プロジェクトヒストリー研究」の対象として取り上げ、その成果を書籍として出版する予定だ。

執筆するのは、ともに南米に詳しい細野昭雄・JICA研究所上席研究員と上記の本郷客員専門員。2人は2011年1月、本件の情報収集のため、ブラジルの首都ブラジリアやミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテ、日系入植地などを訪問した。セラード開発の立役者となったおよそ40人をインタビューし、当時の背景、苦労話、今後の展望までを聞いて回った。

なかでも印象的だったのは、1970年代に開発事業の陣頭指揮を取ったアリソン・パウリネリ氏(元農務大臣)だ。

細野上席研究員は「パウリネリ氏からは『日本の支援はありがたかった。日本のおかげでセラード開発は面的拡大ができた』という言葉が聞かれた。これは、日本の協力がセラード農業の発展に大きく貢献したことを強調したもので、セラード農業への尽力により『World Food Prize』を受賞したアリソンさんの発言だけに、大きな重みがある」と言う。

大豆が先導したセラード開発

セラード開発には、多くの人たちがさまざまな形で情熱を注いだ。農業研究の分野では、セラード農畜産研究所のプリニオ・ソウザ氏がすばらしい功績を残した。

セラードの土壌は強酸性で栄養分が溶脱している。また植物に有害なアルミニウム濃度が高い。このままでは農業には適さない。「当初、セラードには川沿いに僅かな小規模農家が自給自足農業を営むか、大地主がセラード原野に牛を放牧しているかの農業しか考えられなかった。『誰もがここで近代農業を行うのは不可能』と考えていた」(本郷客員専門員)

セラード地帯の自然環境に係る研究の蓄積が進むと、これら知見をもとにコーヒー、穀物、野菜、植林など多くの作物の導入が試みられた。ブラジル政府は1975年、首都ブラジリア近郊に「セラード農畜産研究センター(CPAC)」を創設する。日本は1977年からこのCPACに対し大規模な技術協力を開始した。

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                       ブラジルのセラード植生(熱帯サバンナ)
                                       写真:本郷豊

セラード農業開発の推進役となったのが大豆だ。大豆はもともと中国原産の温帯性作物で、熱帯では正常に生育しない。ソウザ氏は、セラード向け大豆品種第1号ともいうべき新品種の育種に成功した。この新品種は、1974~1980年に経団連会長を務め、日伯経済協力に多大な功績を残した故・土光敏夫氏の名字から「DOKO」(土光)と命名された。

「さまざまな作物が試されたが、トウモロコシは土地が肥えていないと育たない。米はいもち病や干害にやられた。一方大豆は、大気中の窒素を固定する根粒菌と共生するマメ科作物だ。土壌矯正すれば比較的やせた場所でも生育するし、土地を肥やす働きもある。一石二鳥だった」(同)

大豆はセラード開発の先駆作物として急速に普及していく。セラードの大豆生産量をみると、1970年代のゼロから2002年には2,905万トン(日本の大豆需要の7倍以上)に激増した。これは同国の大豆生産量の58%、世界の生産量の13%を占める。

大豆生産の拡大は、搾油工場の進出をももたらした。大豆油の絞りかすを家畜の飼料に利用しようと、さらに養鶏・養豚農家も流入。畜産加工業も興隆した。セラードはいまや、大豆産業の川上から川下までを網羅する一大集積地と化している。

大豆が先導したセラード農業はその後、トウモロコシや綿、コーヒー、野菜などの多様な作物の栽培や畜産へと広がっていった。

セラードをブレイクスルーした先兵は日系人の次男・三男だった

今回の調査では、農家への取材も行った。セラード農業の黎明期に多大なリスクを冒してまで彼らをセラード開発に駆り立てたのはそれ相当の事情があった。

日本からブラジルへ移民した一世の多くは南部のサンパウロ州やパラナ州に入植し、コーヒーや野菜をはじめとする小規模農業を営んだ。南部地帯に開発余地が無くなると次男三男の独立用地問題が深刻化した。そこで開拓先として浮上したのが未開のセラードだった。

サンパウロにはそのころ、ブラジル最大規模で、しかも日系人を核とする農業組合「コチア産業組合」があった。コチアは組合員の子弟の独立用地としてブラジル各地に計画入植地を造成していたが、その1つがミナスジェライス州政府と共同で実施した「アルトパラナイーバ地区計画入植地事業(PADAP)」であった。このPADAP事業は、セラード農業開発事業の嚆矢となる画期的な事業であった。この事業には日系人の次男・三男ら90人余りが入植している。

とはいえ、セラード開発は入植者にとってとてつもなく大きなリスクだ。困難に直面するのは承知済みとしても、それを乗り越えたとき、本当に事業として成り立つのかどうか。

「入植した次男・三男たちは高い農業知識と熱い情熱をもっていた。しかしセラード農業についての知見が蓄積されていない当時にあって、彼らが塗炭の苦しみを味わったであろうことは想像に難くない。彼らはなぜ、そのリスクをとれたのか。何らかの『確信』と『後ろ盾』がなければ、リスクはとれないはずだ。今後この部分も明らかにしていきたい」と本郷客員専門員は言う。

セラード農業開発からアフリカ「熱帯サバンナ農業開発事業」へ

セラードの広さは途方もない。セラード農業の面的拡大を推進する効率的方途が問題となる。

そこでカギとなったのが「組合主導拠点開発入植事業方式」だ。これは、組合が主体となり政府が後押しして各地に拠点を設け、数万ヘクタール規模の入植地を造成する。入植地が軌道に乗るとこれが呼び水となって新たな農業生産者が周辺に入植してくるという仕組みだ。こうしてセラード開発の面的拡大が図られていった。

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       セラード地帯が一望千里の大豆畑に変貌した。
                写真:本郷豊

1979年から始まったプロデセールは、この「組合主導拠点開発入植事業」をセラード地帯の7州で展開した。またプロデセールのために日本とブラジルが「日伯セラード開発公社」(CAMPO社)という合弁会社を設立し、事業の推進と進捗管理にあたらせたのも「日伯セラード開発協力事業」の特徴だ。因みにCAMPO社はセラードの環境保全分野で、入植地毎に「コンドミニアム」と呼称される「共同天然林保護地」の確保など、先例となる画期的手法をあみだした。

細野上席研究員は「日本の協力は、土壌改良や品種改良などの技術的イノベーション、さらに組合主導の拠点方式での入植をはじめとする組織的イノベーションに貢献した。それがブレイクスルーにつながり、ひいてはセラード開発の成功という奇跡を呼び起こしたのではないか」とみる。

セラード開発に対する日本の協力は2001年に終わった。だがセラード開発そのものはまだまだ続く。それだけではない。ブラジルはいま、このセラード農業開発の知見をベースに、日本とともに今後はドナーに立場を変えて、アフリカ・モザンビークの熱帯サバンナの農業開発「プロ・サバンナ」への協力を始めた。

 

(解説)

日伯セラード農業開発協力の背景

ブラジル中部の熱帯サバンナ「セラード」とは、ブラジルで話されるポルトガル語で「閉ざされた」という意味。一般の原野と違い、灌木がまばらに生えていることから踏み入ることが難しい、という趣旨で名付けられたといわれる。

この不毛地帯が注目を浴びたのは1959年。サンパウロ大学の植物学者フェリらが、セラードの貧相な植生は降雨量の不足が原因ではなく、土壌の特性であることを突き止めたのだ。これがいわば、セラードを農地として利用することが農学的には可能というお墨付きとなった。

それにしてもなぜ、ブラジル、日本両国はあえてこの空前絶後なセラード開発に乗り出したのか。そこには双方に深刻な事情があった。

あまり知られていないが、ブラジルは実は1960年代から1970年代前半まで農作物の輸入国だった。大豆輸出はゼロ。小麦は100%輸入していた。ブラジル政府にとって農地拡大は悲願であり、喫緊の課題だった。だが19世紀初頭から続いた開拓で南部地域にはもう拡大の余地はない。そこで候補として挙がったのがセラードだった。

一方、日本政府の中では、食の安全保障に対する懸念が高まっていた。1973年にシカゴ穀物相場が通常の3倍に暴騰したとき、米国は大豆の禁輸措置をとった。日本は当時、大豆の輸入元を米国に依存していたが、この危機をきっかけに、大豆の調達先を多様化すべきとの論調が巻き起こる。こうした背景があって、日本政府はブラジル政府と共同でセラード農業に懸ける決意を固めたのだ。

セラード農畜産研究所によると、2000年までに非灌漑畑地1,000万ヘクタール、灌漑畑地300万ヘクタールが開墾されたという。セラード総面積の約6割に当たる1億2,700万ヘクタールが営農可能で、このうち穀物生産に利用できるのは6,500万ヘクタール。ここから2億3,600万トンの穀物を作ることができると試算している。

大豆栽培がセラード開発のけん引役となったが、セラードはいまや、綿(2000年のブラジル生産量の80%)やコーヒー(同50%)、トウモロコシ(同40%)の一大生産拠点でもある。

日時2011年1月 8日(土) ~ 2011年1月30日(日)
場所ブラジル ブラジリア
問い合わせ先JICA研究所 企画課
電話:03-3269-2357



開催情報

開催日時2011年1月 8日(土)~2011年1月30日(日)
開催場所ブラジル ブラジリア

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