戦後アメリカの生産性向上・対日援助における 日本の被援助国としての経験は何か — 民主化・労働運動支援・アジアへの展開

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本ペーパーはアメリカによる生産性向上の対日援助に焦点を当て、終戦直後から1960年代のアジアへの展開をはじめる時期までを振り返ったものである。この時期は終戦から、援助を日本が受けていた被援助国の時代を経て、日本が援助をアジアに展開していった時代である。本ペーパーが目的とするところは、日本が被援助国であったときにどのようにアメリカの生産性向上支援を受容していたかを検証し、被援助国としての経験がどのようなものであったかを導き出すことである。

その経験の特質は、第1に、アメリカの生産性向上・対日援助は東西冷戦の中で極めて戦略的な位置づけの中で行われたものであったことであり、7年間で3,986名の研修員を受け入れるなど極めておおきな規模で実施されていた点である。第2に、日本において労使関係はもともと対立的であったが、援助を受け入れていく中で協調的な労使関係に変化していったことである。つまり、協調的な労使関係は生産性向上に取り組む中でむしろ作り上げられてきたのである。そして、第3に、アメリカ・対日援助の受け入れに当たって、日本では政府ではなく民間セクター(とくに経済同友会)が援助の受け入れに中心的な役割を果たしたことである。むしろ政府は活発な民間の動きを補助的に支える役割を担ったのであり、これは理想的な産業政策のあり方であったと言える。援助受け入れに当たって予算の半分(半年で1億800万円-1億3200万円)は日本が負担し、しかも政府ではなく大部分を民間が負担したのである。つまり、民間のコミットメントが高かったと言える。アメリカの援助規模はおおきかったにもかかわらず、現在の日本国内では生産性向上について被援助国であったという認識はあまり持たれていない。それだけ日本においては生産性向上を政府、企業、労働者ともそれぞれが自らのものとして受容していったためと考えられる。

著者
島田 剛
発行年月
2018年10月
ページ
48ページ
開発課題
  • #日本の開発協力
研究領域
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