インタビュー【JICA-RIフォーカス 第4号】武内進一上席研究員に聞く

2009.04.20

アフリカの紛争は、部族ではなく国家の問題だ——JICA研究所 武内進一上席研究員にインタビュー

SHINIHICHI,Takeuchi

アフリカでは現在でもスーダンのダルフール地方、ソマリア、ウガンダ東部で紛争が続いています。今回は90年代後半からルワンダを中心にアフリカの紛争と平和構築に関する研究を続けている武内進一客員研究員に、なぜアフリカで紛争が起きるのか、それをどうしたら国際社会が防止できるのか、またJICA研究所がどんな役割を果たせるか聞きました。

自身の経歴

どうして紛争に関する研究を始めたのですか?

直接のきっかけは、農村調査で赴任していたコンゴ共和国の首都ブラザビルで内戦に巻き込まれたことです。やむなく国外に一度逃げて、コンゴ共和国の隣国ガボンに再赴任することになりました。ところが今度は赴任の前日に、ルワンダで大統領が暗殺され大虐殺が始まったのです。1994年4月でしたが、その後のガボン滞在中はどこもルワンダのニュースで持ちきりでした。周囲の出来事に衝撃を受けた私は、半年後に日本に帰国してから序々に紛争研究に軸足を移していったんです。

その年、日本でもルワンダからの難民援助のために、東部ザイール(現在のコンゴ民主共和国)への自衛隊派遣をめぐって多くの報道がありました。しかし難民発生の原因となったルワンダの紛争については、「フツ族とツチ族の部族対立」という安直な説明が多かったんですね。アフリカの紛争、というのは基本的に部族対立だと。

ただ私はそういった報道に違和感がありました。コンゴ共和国の紛争で、政治家が部族というシンボルを使い人々を操作するさまを目の当たりにしていたからです。それで、自分でアフリカの紛争研究を本格的に始めるようになったのです。1997年ころのことでした。

アフリカの紛争の構造

近年多発するアフリカの紛争はどのように起きているのでしょうか。

アフリカでは多くの国が独立した1960年ころから紛争の発生件数が増え、その数は90年代前半に頂点に達しました。そのほとんどが内戦であり、たとえば1994年のルワンダの虐殺、それから『ブラッドダイヤモンド』という映画にもなったシエラレオネの例ですね。ほかにはリベリアやブルンディ、コンゴ民主共和国(旧ザイール)や、私が逃げ出したコンゴ共和国など、90年代にはたくさんの国で紛争が起こっています。

なぜ90年代にアフリカで紛争が増えたのでしょう。

アフリカでは60年代に独立した多くの国が、独裁政権化していくんですね。そうした政権は冷戦体制の中で、アメリカ中心の西側とソビエト中心の東側の陣営に、ある意味擁護され支えられていました。しかしそうした枠組みが、80年代の経済深刻化や冷戦終結による政治的自由化で序々に崩れ、アフリカ諸国の統治体制が大きく揺らいでくるのです。それが90年代に紛争が頻発する背景になったと言えます。

ですから90年代のアフリカ紛争は国家の統治をめぐる内戦であり、「部族対立」といった言い方でエスニシティの問題だけを強調するのは、誤解を招くと思います。アフリカの紛争は、部族ではなく国家の問題なのです。

宗教はどのくらいのウェートを占めているのですか。

アフリカの場合、宗教だけが紛争につながる集団対立のイシューになることはそれ程多くはないんです。スーダンとか、ナイジェリアとか、宗教がらみの紛争はありますが、いずれも民族(部族)の問題と混じり合っています。

また注意すべきなのは、部族対立と同様、政治対立の中で宗教の違いが利用されていることですね。同じ選挙区の2人の政治家の片方が反対勢力に「異教徒」とレッテルを貼って、人々の迫害を扇動する道具になっていると言えます。

そうすると、アフリカの紛争というのは、植民地時代の影響を引きずった要素が強いと言えますか。

その通りです。元来アフリカの国境線が19世紀末のヨーロッパ諸国の都合によって引かれたものなので、それまでの社会単位と全く関係のない国境や国家が出来てしまったのです。その領域内での政治的秩序の築き方に合意がないから、国家権力をめぐる政治対立が表面化しやすい構造があるわけです。その中で有力者が自分の支持者を広げるために、民族や宗教などを使って大衆の間の対立を深刻化させていく、そのようにとらえるのが正しいと思います。

国際社会の関与

国際社会はこれまでどのような対応をしてきたのでしょうか。

冷戦が終わり安全保障理事会の中での米ソ対立が無くなったことで、90年代初頭には、国際社会が紛争介入できる条件が整ってきました。国連を中心に、紛争予防や平和構築への積極性が大きく広がりました。

しかし、国連は90年代にいくつか手痛い失敗も経験しています。たとえばソマリアに人道目的に送られた国連平和維持部隊は、現地勢力と衝突し多数の犠牲者を出しました。さらに1993年10月、『ブラックホーク・ダウン』という映画にもなったように、米国人兵士が殺害され市中を引きずり回されるというショッキングな事件が起きています。これは、国連やアメリカに大きな痛手でした。

fGenocide Memorial Site in Rwanda

ルワンダの納骨堂 写真:渋谷敦志/JICA

ルワンダの虐殺が起きたのは、そのたった半年後でした。ソマリアの生々しい記憶から、当時のルワンダでのPKOは原則として武力行使が許されておらず、安全保障理事会も介入に消極的でした。結果、殺りくの続くルワンダから国連PKOが事実上撤退してしまったのです。『ホテル・ルワンダ』などの映画によってよく知られていますが、これも大きな失敗でした。

後日、国連もアメリカもジェノサイド(集団虐殺)という人道上最大の罪を傍観した事実に、強い自責の念を持ちました。国連事務総長もアメリカの当時のクリントン大統領も、ルワンダを訪れて国際社会の対応としての過ちを真摯に謝罪しています。

その後のアフリカへの国際社会の対応に変化はありましたか。

そういった失敗から学んだ結果、PKO派遣の際には、きちんとしたマンデート(任務規定)と十分な兵力・装備が必要である、という至極当然の議論が大勢を占めるようになりました。その後、PKOの規模はだんだん大きくなり、アフリカの紛争解決に対する国際社会の関与も深まっています。

また90年代以降、PKOのような軍事介入だけではなく、文民による支援や開発援助も次第に増えてきます。紛争が起きた国の再建というより、もともと脆弱だった国の国家建設(ステート・ビルディング)に、国際社会が真剣に取り組むようになったと言えるでしょう。

今でもスーダンのダルフール地方とかソマリアとか紛争が続いている地域はありますが、アフリカ全体として見ると紛争は減少傾向にあります。これは国際社会の関与が深まった影響だと考えられます。

しかし一方で、アフリカの平和に向けての展望は必ずしも明るいわけではありません。多くの国は「戦争と平和の間」のあいまいな領域に位置付けられるでしょう。

戦争と平和の間のあいまいな領域とはどういうことですか。

紛争自体は収まったが、それ以降、民主的な政府が樹立しているかといえば、依然として言論の自由がない。紛争予防のための経済発展はどうかといえば、相変わらず一次産品輸出のみに依存していたり、汚職がひどかったり。武器が未回収だったり、あるいは兵士たちの武装解除はされても高い失業率や将来の不安があって、生活のために強盗を始めてしまう者がいたり。多くの国にさまざまな問題が山積していて、順調な平和構築が出来ていないというのが現状です。

その状況で国際社会が一番協力できることとすれば、政治の分野より、文民による経済開発援助などでしょうか。

紛争が終わったばかりの国で、政治から離れた経済援助などはあり得ません。開発援助には、必ず政治的要素がついて回ります。どの地域に道路を造るのか、というのは非常に政治的な問題ですよね。

むしろ、ドナー自身が自分の政治的存在を認識した上で、最善の関与の仕方を選択していくことが必要です。現地の情勢、政治の構造、権力者などをしっかり把握して現地の勢力と対話を重ね、より多くの人々に裨益する復興支援の方法を考えることが重要なのです。

現在も続いている紛争に、解決策はまだ見つからないのでしょうか。

そうですね。スーダンのダルフール、ソマリア、コンゴ民主共和国東部、ウガンダ、それぞれ長引く理由があり、国家建設の問題を抱えています。現地勢力の中だけではいまだ解決が困難で、一方国際社会にもそれを押さえ込むほどの軍事力を送る余裕がない、という状況だと考えられます。

ソマリア沖の海賊対策に日本も自衛隊の派遣を決定しましたが、紛争が収束してソマリア本国の状況が良くならなければ、この問題の根本的な解決は不可能です。人々は生活のために海賊をしている一面がありますから。

研究の可能性

JICA研究所が果たせる役割は何でしょうか。

紛争後の平和構築とか社会の復興に当事国以外の国が関与することは、基本的には冷戦後に始まったことで、まだ経験が不足しています。国際協力の枠組みの中でどう関与するか確たる処方せんがないので、誰もが試行錯誤の中で見つけていくしかないのです。

JICA研究所が持っている強みというのは、現場の開発協力に携わった経験のある人たちがたくさんいることですね。これまで私は基礎研究に携わってきたわけですが、ここではなるべく多くの方々と交流を重ね、そういった事業体験のリアリティーを研究成果につなげていきたいと思います。

ルワンダでは現在どういう調査を続けているのですか。

現地の人が何を考えているのかを知るために、ここ10年くらいルワンダの南部と東部の農村で各20世帯くらいの人たちに、毎年テーマを変えて話を聞いています。その2つの地域では地理的、気候的条件が違い、また内戦後にタンザニアやウガンダからたくさんの難民が帰国した東部と、それほど帰国しなかった南部との違いもあって、人々の生活実態や経験にかなり差があるんですね。

そういった人々に内戦時の経験を聞いたこともあるし、彼らが所有する畑の面積を測ったこともあります。最近の調査では、ルワンダで行われているガチャチャという虐殺裁判に対する彼らの考えを聞き取りながら、裁判資料の収集に努めました。10年間同じルワンダ人の研究者とコンビを組んで調査しているので、インタビューの裏事情、たとえば村の成り立ち、力関係、疎外されている人たちなどさまざまなことが見えてきています。

そういった細かい調査とともに、時にはやり方を変えて幅広い地域や国々へアプローチをしていきたいなと思っています。JICAの事務所は世界中にありますから、今後の研究にその強みを生かしていきたいと思います。

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