jica 独立行政法人 国際協力機構 jica 独立行政法人 国際協力機構

【ガラシーノ・ファクンド客員研究員インタビュー】日本と南米をつないだ移民をトランスナショナルな視点で見つめ直す

2025.04.04

2021年に始まったJICA緒方貞子平和開発研究所(JICA緒方研究所)の研究プロジェクト「南米における日本人移民に関するトランスナショナルな歴史研究:移民事業、経済開発と文化活動を中心に 」の集大成となる書籍がいよいよ発刊されます。この研究プロジェクトの中心を担ってきたガラシーノ・ファクンド 客員研究員に、移民研究の醍醐味や研究にかける思い、そして今後の抱負を聞きました。

日本文化への興味から移民研究の道へ

─「移民」という分野に関心を持ったきっかけは何ですか?

私はアルゼンチンのブエノスアイレスの出身です。アルゼンチンでは日本文化が人気で、子どもの頃から日本のアニメをよく見ていました。もっと日本文化を知りたいと、14歳からはブエノスアイレス大学での市民向け講座で日本語を勉強し始めました。日本側から見ればブラジルの日系移民のほうがよく知られているかもしれませんが、アルゼンチンにも多くの日系移民が住んでいます。私が習った日本語の先生も日系移民でしたし、日本文化のお祭りも行われていて、私にとって日系移民は身近な存在だったのです。

そうしたことから、日本の大学で学んでみたいと思うようになり、国費留学制度を利用して2008年に来日。「移民」という分野への関心が芽生え、日本と外の世界とのつながりを研究したいと、日本学研究が盛んな大阪大学で大学院まで進学しました。アジアと日本、西欧と日本という枠組みと比べると、私のバックグラウンドでもあるラテンアメリカと日本という枠組みでの日本研究はまだあまり多くありません。移民の歴史を通して、日本の社会、文化、歴史を考え直していきたいという視点で、現在の研究まで至っています。

文献資料には現れない移民の現実を目の当たりに

─JICA緒方研究所に着任して立ち上げた研究プロジェクトについて教えてください。

大学院時代に移民研究を担う研究員の募集を見つけ、自分の研究分野とぴったりだと応募し、研究プロジェクト「南米における日本人移民に関するトランスナショナルな歴史研究:移民事業、経済開発と文化活動を中心に 」を立ち上げました。JICAは、さまざまな組織が合併して生まれた組織ですが、その前身の一つは、戦後の海外移住事業 の実施機関であった海外移住事業団でした。日本からの中南米諸国への移民送出事業と日本人移民や日系人による活動が、日本と南米諸国の近代国民国家の形成とその変容にどのような役割を果たしたのか、その歴史を見つめ直すため、この研究プロジェクトに取り組むことになったのです。

日本から南米諸国への移民渡航は1900年代を通して行われていましたが、私が主に研究対象として扱っているのは、1920年代末から1950年代の初めにかけてです。ブラジルのコーヒープランテーションでの労働力として、家族移民という形で大勢の日本人が渡航しました。やがてアマゾン開発でも入植事業が始まり、県単位の移住組合などもでき、はじめから自分の土地を買って移り住むなど、さまざまな政策が盛んに行われた非常にダイナミックな時代です。

私の研究手法は、移民政策に関わった政府機関や受け入れを担った組織の公的資料、移民が残した会報、日誌、日本語新聞、手記など、さまざまな文献資料にあたることです。もちろん、文献からだけでは分からない背景もありますから、実際に南米各地に赴き、関係者や子孫の方に話を聞かせてもらうこともありました。それによって、文献が書かれた背景が具体的に分かり、文字には残されていない移民の苦労が見えてくることも多かったです。

写真:ブラジル・アマゾナス州にある日本人移民入植地ヴィラ・アマゾニアへ向かう途中に広がる雄大なアマゾン川

ブラジル・アマゾナス州にある日本人移民入植地ヴィラ・アマゾニアへ向かう途中に広がる雄大なアマゾン川

写真:日本人移民入植者によるジュートの移植を記念したレリーフが建つヴィラ・アマゾニアの記念広場

日本人移民入植者によるジュートの移植を記念したレリーフが建つヴィラ・アマゾニアの記念広場

印象に残っているのは、戦後間もない1950年代の初めにブラジルに渡った女性の体験を実際に聞けたことです。その女性は、アマゾン流域での繊維作物であるジュート栽培の労働者として移り住んだものの、当時は歴史的に見ても稀なほど雨季の増水がひどい時期だったそうです。岸辺にポツポツと家が建っていた辺り一帯が水没してしまい、耕作どころではなく何もできず、増水の中で完全に孤立するような状態だったと話してくれました。若くして初めての海外渡航で、ブラジルの様子もよくつかめていない中、理想とかけはなれた現実を知ったつらさは想像を絶します。

こうした生々しい移住の実態は、文献資料には出てきません。文献資料は、移民政策を立案したり移住事業を遂行したりする側によって書き残されていることが多いので、あまり不都合なことは書かれていないからです。やはり聞いてみないと分からないことばかりだと痛感した貴重な経験でした。

移民の歴史は、なぜ、忘れ去られてしまうのか?

─この研究プロジェクトの成果である書籍を通して伝えたいことは?

私が編者の一人を務めた書籍『移民がむすぶ日本と南米の歴史:帝国・開発・官民協力』(東京大学出版会)が2025年に刊行されます。同書では、1920年代から戦後にかけて、移民が南米と日本をどのように結び続けたのか、さまざまな事例から南米日系移民の歴史をひもといています。南米移民事業における官民協力などをとりあげた「移民の送出と教育」、移民による貿易や移民が伝えた日本文化などについての「移民とともに移動するモノ」、移民によるアマゾン開発などをとりあげた「移民と開発」の三部構成です。

研究書なので一般の読者には少しとっつきにくい部分もあるかもしれませんが、ぜひ多くの人にお伝えしたいことがあります。それは、日本は明治期から独自の移民政策を打ち出してきた国である、ということです。「移民」という話題になると、あたかもごく最近、新しく出てきたことのように言われることが多いように感じます。ところが、日本はかつて1世紀以上にわたって移民を送り出す側であり、送り出した移民の保護や支援策を講じてきた過去があるのです。そうした歴史があるからこそ、日系移民の2世や3世が日系ブラジル人や日系ペルー人として来日し、産業を支えたり、地域社会でさまざまな役割を果たしたりしているわけです。しかし不思議なことに、その歴史がすっぽり忘れられてしまっているのが現状です。

写真:ブラジルのアマゾナス州パリンチンスにある「上塚司広場」は、ヴィラ・アマゾニアへの入植50周年を記念して1981年に建設され、通称「日本人広場」と呼ばれる

ブラジルのアマゾナス州パリンチンスにある「上塚司広場」は、ヴィラ・アマゾニアへの入植50周年を記念して1981年に建設され、通称「日本人広場」と呼ばれる

だからこそ本書を通して、移民問題と日本社会の深い関係について問題提起することが、この研究プロジェクトの意義だと考えています。移民は、特別な人々ではない。現実社会において、いかに移民を受け入れ、対等な立場で共生していくかを考えるにあたり、日本の近現代史において移民政策が果たした大きな役割について、研究者でない方にも認識を深めていただきたいと思っています。本書の序章には、そうした私の思いも綴っていますので、ぜひご覧ください。

国境を超えた学術コミュニティーの橋渡しを

─今後の展望を教えてください。

私だからこそできるのではないかと考えているのは、国境を超えた学術コミュニティーの橋渡しをすることです。南米でも移民研究は行われていますが、日系2世、3世の世代となり、日本語を使って研究し、資料を残せる人が少なくなってきています。貴重なコミュニティーの記憶である日本語の資料が失われているのも実際に見ました。また、移民研究には受け入れ側の社会の視点も大事です。そうするとスペイン語やポルトガル語でしか発表されていない資料や論文となることが多く、日系ブラジル人の地域社会研究など、ほかでは知り得ない重要な視座に富んでいるものの、そうした研究が日本で参照されることはあまりありません。

その理由は、言語の問題もありますが、そうした研究が「移民研究」に分類されているとは限らないためです。社会学、地理学、歴史学など、「移民」とは違うジャンルとして発表されている研究は、移民研究者の目にとまりにくい。そして、学術的なコミュニティーが連携していないという壁もあります。日本の移民研究者と南米在住の研究者が直接議論を交わす場はなかなかないので、互いの研究について知る機会がありません。例えば、日本語で書かれたフランス文学に関する論文がフランスで参照される機会が多いとは残念ながら思えないのと同じです。

移民は、送り出し国、そして受け入れ国という複数の国にまたがっている存在です。だからこそ、それをいかに「接続」し、国家の枠を超えた歴史の記述を試みるかが重要です。私はスペイン語も日本語も分かりますので、その強みを生かして、移民研究に関する学術的なコミュニティー自体をよりトランスナショナルにしていきながら、研究を続けたいです。

関連リンク

関連する研究者

\SNSでシェア!/

  • X (Twitter)
  • linkedIn
トピックス一覧

RECOMMENDこの記事と同じタグのコンテンツ