ボスニア紛争悲劇の街で再び人々が共存できる道を探して—プロジェクト・ヒストリー出版記念セミナー開催

2020.01.23

2020年1月16日、JICA研究所は書籍「プロジェクト・ヒストリー」シリーズ第24弾『これで子や孫までスレブレニツァでまた暮らせる。ありがとう。—ボスニア紛争悲劇の街、復興支援の記録』出版記念セミナーを開催しました。

同書の舞台は、ボスニア紛争下の1995年、8,000人以上のボシュニャク(ボスニア系)住民の虐殺が起こったスレブレニツァ。JICAは紛争終結後の2005年から農業を通じた民族融和・復興支援を行い、生活基盤の立て直しから、異なる民族の子どもたちが一緒に通う幼稚園の設立まで、さまざまな成果を残しました。

セミナー開会にあたり、JICA研究所の大野泉所長があいさつし、「JICAは民族や宗教による対立のない世界を願って国際協力を行っている。緊迫する現在の国際情勢の中、ボスニアで復興支援に携わった関係者の話を聞き、意見交換できるのは非常に意義深い」と述べました。

このプロジェクトの実施当時、JICAオーストリア事務所所員だったJICA研究所の伏見勝利次長は、現地調査を始めた2004年当時、現地では「民族融和」という言葉自体がまだタブーだったことなどを振り返りながら、ボスニア紛争の背景やプロジェクトの全体像を紹介しました。

次に、同書の著者で、プロジェクトを総括した元JICA専門家の大泉泰雅氏が登壇。本書を通じて伝えたいこととして、「農業支援の目的は経済的な生活基盤の復興だが、それはあくまで手段であり、真の目的は、紛争で殺し合った異なる民族の人々が隣人として以前のように仲良く生活できるようになること。書籍のタイトルになった『これで子や孫までスレブレニツァでまた暮らせる。ありがとう』という住民のおばあちゃんの言葉こそ、真の成果」と述べました。

JICA研究所の伏見勝利次長がボスニア紛争の背景やプロジェクトの全体像を紹介

プロジェクトを総括した元JICA専門家で著者の大泉泰雅氏

プロジェクト開始時には、セルビア系住民が加害者、ボスニア系住民が被害者という当時の国際世論が各ドナーの支援に影響していたとし、「援助で建てられたボスニア系住民の立派な家のそばで、セルビア系住民がテントで生活していた。両民族がモザイクのように混ざり合って生活している地域なのに、これでうまくいくはずがない。自分の目で見て、必要と思う支援をするのが専門家の仕事。だから、両民族に平等になるように進めることにした」と振り返りました。また、比較的低予算で効果的に事業を進められた理由として、「例えば、酪農や羊の放牧が盛んだった地域なのに、肝心の牧草地は荒れ放題。そこで、牧草の種の支給とトラクターの燃料費だけを補填することに。活動を始めるための最初の一歩を支援すれば、後は住民が自立的に実施していく。その結果、1,000ヘクタール以上の牧草地が復興した」と説明。こうした方法でイチゴやキノコの栽培など、約8年間で10以上の事業を支援し、約5,200家族が参加したことで地域全体の底上げにつながったと述べました。

続いて、前外務省大臣官房ODA評価室長の村岡敬一氏と大泉氏の対談が行われ、村岡氏は「紛争後の行政機関が十分機能していない状況下で、どのように支援を組み立てたのか」と質問。大泉氏は、「彼らもどうやって復興していけばいいか分からないから、こちらからどんどん提案していく。ただし、必ずスレブレニツァ市役所には報告や相談をしてコミュニケーションを取り、“復興を自分たちでやっている”と思ってもらえるようにしていた」と答えました。また、村岡氏がドナーによる支援終了とともに住民の活動が持続しないケースも多い中、スレブレニツァでは住民たちが事業を継続していることに言及すると、大泉氏は「一つの家族が複数の事業に参加したため、住民同士の協同作業を通して会話の機会が増え、網の目のように地域住民の民族を越えた人的つながりが広がった。落ちこぼれが出ないように、広く浅く、直接支援したことがよかった」と説明しました。

前外務省大臣官房ODA評価室長の村岡敬一氏(左)と大泉氏が対談

会場からの質疑応答では、緊急援助NGOより「難民の帰還段階になると自分たちの出番はなくなるが、そこから復興支援にどう結びつけたらいいか」と質問が寄せられ、大泉氏は「緊急支援と同時に彼らが自立していく支援を最初から進めるべき」と提案するなど、さまざまな立場から活発な意見交換が行われました。

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