「フィリピン日系人の戦後:就籍のプロセスからみえる『故郷』」:「移住史・多文化理解オンライン講座 ~歴史から『他者』を理解する〜」2022年度第2回開催

2023.03.07

JICA緒方研究所とJICA横浜・海外移住資料館が共催する「移住史・多文化理解オンライン講座~歴史から『他者』を理解する~」のシリーズ第2回のテーマは、「フィリピン日系人の戦後:就籍のプロセスからみえる『故郷』」。2023年1月31日にウェビナー形式で開催され、上智大学外国語学部英語学科の飯島真里子教授が講演しました。フィリピン日系人がたどってきた歴史を振り返り、国境を越えて生きてきた人々にとっての「故郷」や「国籍」が持つ意味を考えます。

上智大学外国語学部英語学科の飯島真里子教授

戦前、フィリピンには東南アジア最大の日本人移民社会があった

日本には今、フィリピンから移民としてやってきた人が約29万人暮らしており、その数は決して少なくありません。しかし、その中で戦前期にフィリピンへ移住した日本人の子孫である「フィリピン日系人」はごく少数派です。フィリピン日系人に関する研究も少なく、現在の日本社会では、フィリピン日系人の経験や歴史がほとんど理解されていないのが現状です。飯島教授は、歴史的文脈からその理由を解説しました。

邦人ダバオ移民100周年記念、終戦時ダバオ引揚60周年記念の納骨堂

多くの日本人がフィリピンに渡ったのは、フィリピンがアメリカ統治下にあった1903〜1904年のこと。ルソン島での道路建設に2,800名の日本人が関わりました。道路建設が終わると、大部分はミンダナオ島中心部のダバオに移り、ジャングルを開墾してマニラ麻栽培に従事しました。やがて農園経営も担うようになり、第二次大戦までに5万3,000名が移住し、ダバオは東南アジア最大の日本人移民社会へと発展しました。

その日本人移民社会で、日本人男性とフィリピン人女性が結婚して家庭を築くケースも見られました。

背景には、移住時点での不均衡な男女比に加え、日本人を含む外国人は土地を所有できないというフィリピン公有地法の存在がありました。農園経営のためには、フィリピン人女性と結婚して土地を所有することが有効だったのです。公式に記録されているだけでも、1939年時点で874名の日本人男性がフィリピン人女性と結婚し、2,358名の子どもが生まれました。

日系人社会の分断と再生への道のり

この後、飯島教授の話はフィリピン日本人移民社会の分断の時代へと進みます。第二次世界大戦中の1942〜1945年、フィリピンは大日本帝国に編入されました。それを受けてダバオにいた日本人移民5,027名が徴兵され、戦火を生き延びたのはわずか374名。日本人やフィリピン人の妻と子どもたちが多数取り残されました。

1945年の終戦とともに、フィリピンが再び米国統治となると、夫婦ともに日本人だった家族の9,100名は日本に引揚げましたが、日本人の夫を亡くしたフィリピン人の妻とその子どもたちの多くは、日本語を話せなかったこともあり、フィリピンに残留しました。また、生き延びた日本人男性のなかには、後で妻子を呼び寄せると言って単身帰国する人もいましたが、さまざまな理由から実際に呼び寄せることは殆どありませんでした。こうしてフィリピンの日本人移民社会は、日本とフィリピンに離散したのです。

大戦中の日本軍による残虐行為から、戦後のフィリピンでは反日感情が高まりました。そのため、フィリピン残留組にとっては過酷な生活が始まりました。日本名をフィリピン姓に改名するなどして、日本人の妻子であることを隠さなければならず、生活は苦しく、高校に進学できた子どもはわずか30%でした。

1956年には日比賠償協定(日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定)が成立し、徐々に分断されたコミュニティの再生プロセスが始まります。引揚者によるダバオ墓参が1968年に始まり、「ダバオを愛する会」といったフィリピンに住む日系二世(日本人男性とフィリピン人女性の間に生まれた子ども)を支援する活動も生まれました。1980年ごろからはフィリピン各地に日系二世を中心に組織された「日系人会」が生まれ、日本に単身帰国した父親探しなど、日系人としてのルーツを知ろうとする動きが盛んになっていきました。

しかし、それは容易なことではありませんでした。父親の情報や遺族年金を求めて日本大使館や領事館へ掛け合っても、取り合ってもらえませんでした。日本との関係を意図的に絶っていたこともあり、父親の名前をカタカナでしか記憶していない人も多く、日本人であるという証明ができないためです。

フィリピン日系人の問題が「発見」されたのは1986年、外務省とJICAによる「フィリピン日系人実態調査報告書」が刊行されてからでした。ここで初めて、第二次世界大戦中から戦後にかけて「悲劇の歴史」

があったことが明らかにされ、やがて1990年から日本政府によるフィリピン残留者の帰国支援などが始まりました。中国残留邦人に対する支援と比べれば、いかに遅いスタートだったかが分かります。

トランスナショナルな人々にとっての「故郷」

ここで問題になるのが国籍の問題です。戦中戦後の混乱のなかで、フィリピン残留組のなかには、事実上の「無国籍」状態に置かれた人も多くいました。「日本人でありながら、改めて日本国籍を取得する『就籍』は、外国籍からの『帰化』とは別の難しさがある」と飯島教授は指摘します。東京家庭裁判所に申請するために来日が必要なことに加え、身元確認作業も困難を極めます。

それでも就籍を希望する人が多いのは、主に3つの理由がありました。1つには就籍のプロセスが肉親探しにつながること。2つ目には日本人としてのアイデンティティの回復。さらに3つ目として、日本での就労機会を得られることです。1990年の入管法改正により、日本人の子か孫(二世か三世)であることを証明できれば、日本での就労機会が広がります。日系二世が「日本人」となれば、それ以降の三世や四世、その配偶者も日本で就労でき、世代を超えた経済的な関わりが確立されます。

それではこうして日本国籍を取得した人にとって、「故郷」とはどこになるのでしょうか。飯島教授はそう問いかけ、「国境を越えて生きるトランスナショナルな人々が、どのような歴史的文脈のなかで移動してきたのか、受け入れる側の社会の人々もしっかりと目を向ける必要がある」と語ります。フィリピン日系人の場合、大きく分けると、終戦時に生じた残留者問題への対応と、海外日系人への入管法改正による就労機会の広がりという2つの文脈を背景に、日本に「帰国」しています。そうした人々にとって、国籍のある国が故郷とは限りません。飯島教授は、多文化共生社会の構成員となるそれらの人々の状況を歴史的視点から考えることが必要とし、「複数の故郷を持っている、そのトランスナショナル性に目を向けるべきです」と強調して講演を締めくくりました。

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