【川崎昭如教授インタビュー】治水への投資が貧困や格差を減らす
2026.07.02
JICA緒方貞子平和開発研究所(JICA緒方研究所)のフラグシップレポート『今日の人間の安全保障』第3号―人間の安全保障をはかる に寄稿していただいた東京大学未来ビジョン研究センターの川崎昭如教授は、開発途上国の水災害と貧困・格差拡大との関連性を追い続けています。今回は、JICA緒方研究所地球環境領域の大塚高弘 主任研究員が、人間の安全保障の観点から水災害と貧困との関連やその影響をどう測るかなどについて伺いました。
大塚:川崎先生には、『今日の人間の安全保障』第3号に研究エッセイ「貧困や格差拡大に対する水災害の影響の計測および社会レジリエンスを高める気候適応策の評価」 をご寄稿いただきました。防災と貧困・格差問題に関するご自身の研究を、人間の安全保障というレンズを通して見ていかがでしたか?
川崎:実はこれまで、人間の安全保障の概念から防災や開発に関わる影響を考えたことはなかったので、今回寄稿のご依頼をいただいて初めて、「自分の研究は、人間の安全保障にもつながっていた」と気づくことができました。人間の安全保障が重視する“恐怖からの自由”、つまり生命や暮らしを脅かされることなく生きていけるという観点から見ても、自然災害はまさに人間の安全保障を脅かす脅威の一つです。中でも洪水による被害の影響は一様ではなく、資産や社会関係資本に乏しい脆弱層、つまり貧困層ほどより大きな被害を受けやすい傾向があります。そしていったん洪水によって生活基盤が損なわれると、生計面や教育面、健康面などに長期的な影響が及び、回復にも時間がかかります。特にインフラや社会制度が十分に整備されていない開発途上国において、洪水は貧困の固定化や格差拡大につながる要因となり得ます。
大塚:川崎先生はアジアやアフリカの洪水常襲地帯で調査をされていますが、現地の人々は脅威をどのように認識しているのですか?
川崎:脅威の受け止め方は多岐にわたりますが、低所得層の人々は、河川や海岸沿いで、竹やわらなどで簡素に組んだだけの脆弱な家に住んでいるケースが多く見られます。例えば、大陸河川の下流低平地では、たとえある地点で過去数日間に雨が降っていなかったとしても、上流で数日前あるいは数週間前に降った雨が原因で、洪水が発生することがあります。電気がなく、早期警報システムも整備されていない地域では、夜、寝ている間に気づいたら水が床下まで迫っていた、ということもあるそうです。そのため、人々は雨季の間、「いつ洪水が起きるのか?」という不安を抱きながら、眠れない日々を送ることになります。また、いったん洪水で家が浸水すると、たとえ水が引いても大量の土砂の撤去に長期間を要します。衛生面での心配はもちろん、ヘビなどの野生動物が土砂と一緒に流れ込んでくることへの不安もある、という話も聞きました。日雇い労働者の人々は、洪水によって何日も仕事がなくなって収入が途絶えてしまいます。もともと貯金がなく、金融機関へのアクセスが限られている人たちにとって、収入源を失うことは非常に大きな恐怖だと思います。
大塚:一度被害を受けると元に戻すのが大変ということですね。
川崎:そうですね。2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジーとエスター・デュフロによる共著『貧乏人の経済学』では、貧困の罠を「S字カーブ」を用いて説明しています。資産や投資が少ない段階では、投資を行っても十分な効果は得られにくい一方、ある程度資産が蓄積され、一定の閾値(しきいち)を超えると、生産性や所得が急速に向上していくという考え方です。逆に言えば、わずかなショックによって資産を失うだけでも、その閾値から大きく遠ざかり、再び這い上がることが難しくなってしまいます。洪水が毎年のように起こると、貧困層はせっかく蓄積した資産を失い、すぐ回復することもできません。その結果、閾値に到達できないまま、いつまでも貧困から抜け出せないという悪循環に陥ってしまいます。ですから、教育や公衆衛生整備といった従来の貧困支援政策に加えて、気候変動リスクを鑑みると適応策としての治水対策も、貧困や格差に対応する上で重要な開発協力のアプローチとなり得ると考えています。
開発途上国の水災害と貧困・格差拡大との関連を研究する東京大学未来ビジョン研究センターの川崎昭如教授
大塚:川崎先生が水災害と貧困に関心を持ったきっかけは何ですか?
川崎:私はもともと地理情報システム(Geographic Information System: GIS)を活用した防災の研究をしていて、最初から開発途上国の貧困や格差に関心があったわけではありません。しかし、2010年から4年間、タイのアジア工科大学院(Asian Institute of Technology: AIT)の水工学・マネジメント学科で教える機会があり、アジア各国からの学生たちと出会いました。その中には、「水と貧困について研究したい」という学生が多くいました。私は当初、「え?水と貧困?」と驚きましたが、彼らと一緒にタイやミャンマー、バングラデシュなどにフィールド調査に出かけ、洪水常襲地帯に暮らす人々の脆弱な住居や過酷な生活環境を目の当たりにしました。それが、水災害と貧困の関係に関心を持つ直接のきっかけになりました。私は建築学科の出身ということもあり、自然環境や居住環境がそこに住む人々の暮らしに与える影響について興味がありました。そうした問題意識から、次第に貧困や格差の問題にも関心を深めていきました。
当時、「災害による貧困の悪循環」という言葉はあったものの、データに基づく分析は国レベルのマクロなものに留まっていて、地域や世帯というミクロレベルで、生活への影響を調べた研究はほとんどありませんでした。そこでAITの学生たちと2010年から始めたのが、ミャンマーの洪水常襲地帯での世帯訪問調査です。以来15年以上にわたり、ミャンマー、タイ、フィリピン、スリランカ、バングラデシュ、ガーナの6ヵ国の洪水常襲地帯で、9,000世帯以上を対象に実態調査を実施してきました。洪水と貧困の関連をこれほど大規模に調査したデータは、世界でも類を見ないと思います。ミャンマー、タイ、フィリピン、ガーナの4ヵ国での調査については、JICAの地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(Science and Technology Research Partnership for Sustainable Development: SATREPS) に参画できたことも大きかったです。ガーナでは現在も調査が進行中で、2025年末は学生と一緒に現地で年越しをしましたよ。
水資源管理などについて研究しているJICA緒方研究所の大塚高弘主任研究員
大塚:どのようなアプローチで分析し、どんな結果が見えてきたのですか?
川崎:「度重なる洪水は貧困の悪循環を加速する」という仮説のもと、洪水常襲地帯の低所得層と高所得層を対象に、過去に発生した複数回の大洪水において、それぞれがどのような被害を受けたのか、また仕事や教育にどのような影響が生じたのかについて、定量的な聞き取り調査を行っています。また、被害を受けていない近隣の世帯にも同様の聞き取りをして、比較分析も進めています。ミャンマー、タイ、フィリピンの3ヵ国の洪水常襲地帯では、度重なる洪水によって、低所得層の家計は短期・中期的に停滞あるいは悪化する一方、高所得層の経済状況は相対的に改善し、その結果として格差が拡大するという共通の傾向を実証しました。ただし、影響の大きさや格差の開き方には、国による違いもあります。例えば後発開発途上国のミャンマーでは経済システムが十分に発達しておらず、金融へのアクセスも限られているため、貧困層は貧困から抜け出すことが難しく、経済状況がさらに悪化する傾向が見られます。洪水の規模の違いもあるので、具体的にどのような因果関係があるのかについては、現在も継続して調べているところです。
大塚:川崎先生は、こうした調査研究の成果を社会政策に結びつける活動もされています。研究を実務に生かすためにどんな工夫をしていますか?
川崎:SATREPSを通じて、研究成果をもとに各国の中央省庁や地方政府に政策提言を行う機会が何度かありました。その中で毎回痛感するのは、政策が必ずしも科学的なエビデンスに基づいて決定されるわけではなく、政治的な判断やさまざまな要因に左右されることが少なくない、ということです。エビデンスに基づいた政策立案を支援するためには、研究成果の見せ方を工夫しなければ、十分に伝わらない。そこで、防災投資や教育支援、所得の再分配などの政策を実施した場合と、何も実施しなかった場合について、それぞれのケースや施策の組み合わせごとに、30年後の貧困削減や格差縮小への効果を推算するシナリオ分析を行いました。そして、将来の社会経済への波及効果を、数値やグラフで定量的・視覚的に分かりやすく示すツールを開発しています。
さらに、日本における過去の治水投資が、どのような経済効果をもたらしたのか、を示すことも重要と考えています。例えば信濃川流域では、100年以上前からの治水工事の記録が残っています。そこに農業・工業・商業などの統計データを重ね合わせることで、治水投資がその後の社会経済の発展にどの程度つながったのかを把握することができます。こうした過去の実績もあわせて提示することで、政策提言の説得力を高め、関係者の理解を促す工夫をしています。
大塚:日本の開発経験を根拠にしつつ、相手国の社会や行政システムに受け入れやすい形で、具体的に提言することが重要ですね。私たちも人間の安全保障の取り組みを一層推進していきたいと思います。ありがとうございました。
【プロフィール】
川崎昭如(かわさき あきゆき)
東京大学未来ビジョン研究センター教授。同大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻を兼務。横浜国立大学、国連大学、ハーバード大学、アジア工科大学院(Asian Institute of Technology: AIT)などを経て、2022年より現職。
事業事前評価表(地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)).国際協力機構 地球環境部 . 防災第一チーム. 1.案件名.国 名: フィリピン共和国.
事業事前評価表(地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)).国際協力機構 地球環境部 . 防災第一チーム. 1.案件名.国 名: フィリピン共和国.
事業事前評価表(地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)).国際協力機構 地球環境部 . 防災第一チーム. 1.案件名.国 名: フィリピン共和国.
事業事前評価表(地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)).国際協力機構 地球環境部 . 防災第一チーム. 1.案件名.国 名: フィリピン共和国.
事業事前評価表(地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)).国際協力機構 地球環境部 . 防災第一チーム. 1.案件名.国 名: フィリピン共和国.