「多様化する人の移動と多文化共生」:「移住史・多文化理解オンライン講座 ~歴史から「他者」を理解する〜」2022年度第7回開催

2023.04.19

JICA緒方研究所とJICA横浜・海外移住資料館が共催する「移住史・多文化理解オンライン講座~歴史から『他者』を理解する~」シリーズ最終回となる第7回のテーマは「多様化する人の移動と多文化共生」。2023年3月14日にウェビナー形式で開催され、大和大学社会学部教授(上智大学名誉教授)の蘭信三氏が講演しました。グローバル時代の日本社会の規範の一つである「多文化共生」と、戦前戦後の日本をめぐる「国境」を越えた多様な人の移動が、どのように関連しているかを考察しました。

大和大学社会学部教授、および上智大学名誉教授の蘭信三先生

多民族帝国から単一民族国家の形成へ

南米日系人やその他の外国人の日本への移動は、1990年入管法改正後に急増したと言われています。しかし、それは日本にとって「初めての経験」なのでしょうか?少し歴史を遡れば、決してそうではないことが分かります。例えば、かつて20世紀初頭の日清・日露戦争後に日本の植民地帝国化が進むと、360万人もの内地人が外地へ移動しました。それと同時に、第一次世界大戦中からの「大戦景気」による労働力不足などを背景に、主に朝鮮人をはじめとする外地から内地への移動も盛んになりました。朝鮮人だけを見ても、その数は戦前期には最大235万人に上り、終戦時には約200万人と推計されています。

また、朝鮮から満洲へは、農民層を主にしながらも専門職を含む多様な人々が推計215万人も移動しています。台湾から満洲へも、3000人程度と少ないながら、主に高学歴層が移動しました。こうした外地から外地への移動も含めると、帝国圏をめぐる人の移動は総体で800万人を超えていたと推計されています。

そもそも、外見や言葉による差異はあっても、「外国人とは誰か」という法的規定は自明のことではなく、時代の変遷と共に移り変わってきました。大日本帝国下、植民地に総督府を置いて人々を帝国臣民化する一方、内地と外地では異なる法体系のもと、朝鮮戸籍と台湾戸籍を持つ人々には明治憲法公布時の国籍法は適用しませんでした。つまり、二重構造があったわけです。

第二次大戦敗戦とともに帝国体制は崩壊し、1951年のサンフランシスコ講和条約締結により、旧帝国臣民の日本国籍は、結果的に「剥奪」されました。当時の吉田内閣が、先鋭的な朝鮮人共産主義者の国民化、ひいては日本国内での共産勢力の拡大を防ぐために講じた措置だったという見解もあります。同時に、日本国内の「外国人」対策として、現在に連なる入国管理体制が確立されました。蘭教授は、日本はこれを境に〈多民族帝国から単一民族国家〉へと向かうことになったと説明しました。

難民受け入れに始まる多文化共生という規範

やがて1955年頃から1973年頃までの高度経済成長期を迎えると、都市部の労働者不足を地方出身者で補うようになります。明治以降の100年間、近代日本は爆発的な人口増加傾向にあったため、それが可能だったのです。20世紀初頭からすでに少子化が始まっていた欧州が、主に旧植民地を中心として海外からの労働移民を受け入れる政策を取ったのとは対照的に、日本では地方出身者によって労働力需要は充足され、国境を越えた人の移動は基本的に抑制されていました。

その体制に変化が生じたのは、人口増加が一段落し、1972年の日中国交正常化を契機とした「残留日本人」の中国からの帰国や、1978年のインドシナ難民の受け入れ開始の頃からです。1981年に難民条約に加入すると、翌年に従来の「出入国管理法」が「出入国管理及び難民認定法」と改正されました。「それまでは植民地の帝国臣民や日系人の移動のみだった日本が難民受け入れに舵を切ったインパクトは大きかった」と蘭教授は評します。ここからグローバルスタンダードへの一歩を踏み出し、日本社会にも多文化共生という規範が登場しました。

1980年代後半のバブル経済下では、先の経済成長期のように若年の地方出身者によって労働者不足を補うことはできず、南米の戦後移民一世を「デカセギ」として積極的に受け入れ始めました。さらに1990年の入管法改正で日系人の二世や三世向けに「定住者」という在留資格が制定されました。1993年からは国際協力という文脈で、「技能研修生」の名のもとに各国の外国人労働者の受け入れを開始し、2010年と2017年の制度改革を経て、徐々に実質的な「定住労働者」の受け入れへと移行してきたと蘭教授は話しました。

21世紀になって人口減と少子高齢化が顕著になり、グローバル化の波による外国籍者の急増とともに、地球規模でグローバル人材の獲得競争が激化するなか、日本社会も外国人に依存しなければ立ち行かなくなってきたと蘭教授は主張しました。ついに2019年、法務省の内局にあった「入国管理局」は「出入国在留管理庁」として外局になりました。「外国籍の人たちが日本にいることを前提とする状態に変わってきた証拠です。「在留」を踏まえた出入国管理へと政策転換が必要とされるようになったのです」と蘭教授は話します。

20世紀型の国民国家の危機

こうして長いスパンを振り返った後、最後に蘭教授はウクライナ・ロシア戦争の話題に触れました。「ウクライナ在住のロシア人の保護やロシア系住民の住民投票などを盾にしたロシアによるウクライナ侵攻は、ナチスが1930年代に(チェコのズデーテン地方で)行ったやり方と同じではないか。20世紀初頭の民族マイノリティ問題が再燃していることに危機感を覚えます」。単一民族国家・国籍の単一化を志向する20世紀型の国民国家に戻るのか?「国のために銃をとる」という素朴ナショナリズムを賛美していいのか?この戦争と国際社会の分断のなか、外国人の権利や人権は守られるのか?蘭教授は今も続くウクライナ・ロシア戦争から想起されるこうした問いを投げかけ、多様化する人の移動と多文化共生について、一人ひとりの思考を促しました。

関連動画

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